ヨーゼフ・ボイス / Joseph Beuys(1921 - 1986)

ヨーゼフ・ボイス展.1984年3月 荒尾 純 撮影.「石橋直樹と渡辺健次へ ヨーゼフ・ボイスより」

中島徳博さんは、兵庫県立近代美術館学芸員であった頃、トアロード画廊に於けるヨーゼフ・ボイス展に因み、論評を残している(讀賣新聞 1984年3月29日付 夕刊・文化面)。ボイスの作品〈くわ〉(1978年作 88×22×7㌢)を取り上げ、作家の思想に思索を巡らせる。個展の様子を撮った写真、中央奥に展示されている作品がそれである。とても示唆に富む内容なので、以下に全文を掲載する。

 『掘り起こす根源的な生』
 この写真が示しているのは、人力で鍛造された鉄と、オリーブの木の枝をけずって作った柄からなる一本のくわである。精錬されていない鉄は、光沢を放つのでなく、表面の不規則な凹凸の中で、鈍重に光をすい取る。それは鉄のかたまりが本来そうであったように、人間の馴致(じゅんち)をいっさい拒絶する、どす黒さと凶暴さをとどめている。そして枝の節々の跡を残した荒けずりの柄は、それをしっかりと握った時の、私たちの手が感じるであろう充実した感触を想像させずにはおかない。「素朴さ」などというとりすました形容詞はとうてい受けつけそうもない、この荒々しさと粗野の印象は、私たちの感覚の根源的な部分を激しくゆさぶる。
 それは何故なのか。それが一本の「くわ」にほかならないからである。これを握る手は、都会人のきゃしゃで神経質な手ではなく、太古の農民の節くれだったたくましい手である。この一本のくわは、「大地を耕す」という最も根源的な人間の活動、すでに私たちの記憶からはとうに消え去ったと思われる活動のあらゆる感覚を、突如としてなまなましくよみがえらせてくれるのである。この一本のくわは、人間がこの地上に額に汗して生きることの、感傷を排した即物的な象徴にほかならない。
 よく見ると柄の横腹にFIU(自由国際大学の頭文字/フリー・インターナショナル・ユニバーシティ)の文字が焼きつけられてあり、これがヨーゼフ・ボイスの一連の活動に結びついたものであることを示している。これが果たして「芸術作品」なのであろうか。そうではなく、それ以上のものである。1972年、ノーベル賞文学者のハインリッヒ・ベルとボイス二人の連名で発表された自由国際大学の発足声明は、次のようなことばで始まっている。「創造性はけっして、伝統的な芸術の領域で活動している人々のみのものではなく、また芸術家にとっても彼らの制作活動だけに限定されるものではない。すべての人間は、潜在的な創造力を持っているが、それが競争や成功への野心によって隠されているだけである」。格調高いこの声明文の中には、あらゆる人間は芸術家であるという、ボイスの有名な信念が反映されている。このくわは、自由国際大学の活動の一環として、1978年イタリアのぺスカラで開催された「農業の再生のための機関」と題される討論の場において、ボイスが用いた道具である。
 現在神戸で開催されているボイス展は、すでに現代美術の神話的存在になったこの人物が、事物に与えるたぐいまれな象徴性と、根源的な生への喚起力を、戦りつを持って味わわせてくれる。つねに芸術を超えて、より究極的なものへと思考を誘発する、それがボイスの世界である。

 (以上掲載文章。中島徳博さんはこの他にも、ザ・コンテンポラリー・アートギャラリーで開催された〈ヨゼフ・ボイス マルティプル〉⦅1989年4月~5月⦆に寄稿している)