展覧会開催予定
upcoming exhibition

2024年開催予定

奥田 善巳・油彩画 / OKUDA Yoshimi・Oil Paintings

奥田善巳  CO-338 , F15 , 1986年
奥田善巳 CO-345 , P20 , 1986年

萬世 清次 展 / MANSE Kiyotsugu 2024年 開催予定

パーティーでのスナップ写真(1989年6月、神戸市中央区)。「アパルトヘイト否(ノン)! 国際美術展」神戸市展という大仕事を終えた私たちは、レストランを借り切り、ちょっとした贅沢を楽しんだ。左から越智裕二郎さん、3人目が岡田久美子さん、そして萬世清次さん。他にも画学生諸君、学校教諭、翻訳家、クラブのマダム、教育学の教授、精神科医、新聞記者といった大勢の関係者らが集っていた。

                        児玉靖枝さんデザインによる展覧会チケット

 「アパルトヘイト否(ノン)! 国際美術展」(Art Against Apartheid)は、反アパルトヘイト世界芸術家協会と国連アパルトヘイト対策特別委員会とが主体となり企画された。34ヵ国81人の作家が参加、154点もの作品を提供した。1983年のパリ開催を皮切りに、作品群は諸国を巡った。日本では北川フラムさんが応じ、事務局長を務めた。国内の開催希望地の人々と交流・交渉の場を持ち、専用の大型トレーラーでもって作品を搬送したのだった。神戸市展の開催期間は、1989年5月23日から28日までの6日間、〈画廊ポルティコ〉(神戸市都市局)と〈アートホール神戸〉(兵庫県学校厚生会)の二会場に分散させて全作品を展示した。

 萬世清次さんは、自らが経営する絵画教室〈神戸芸術学林〉を事務局として使うよう申し出てくれた。「自分が出品できないのは残念だ。日本独自で、展覧会を企画できんもんかなあ」と苦り切るものの、「正義の旗印の下に集まった作家たちの面倒を見るのは、同じ作家として当然なんだよ」と開催資金集めに奔走した。正義や人間の尊厳、そして政治と社会の在り方について深く思索する画家だった。しかしそれは、藝術家として生きる人間にしてみれば当然のことで、特別なこととは思っていなかったようだ。他者に寛容に接し、作家にありがちな傲慢さがまったくない。相手の話しにじっと耳を傾けていることが多く、時折小さく唸っている。一緒になって考えているのだった。相手が行き詰っていると見るや酒場に誘い、「まあ飲もう」と日本酒を注いだ。友人らは勿論のこと、多くの画学生が親しみを抱き、彼の前では誰もが自分らしくいることができた。
 一方で、自らの美の在り方を追求する段となると容赦が無かった。絵画教室の片隅をアトリエに設えていたのだが、個展も間近になると、昼間から日本酒をあおり、イーゼルの前を苛々と歩き廻る。罵りながら、力任せに木炭を床に投げつけたりもする。何かが憑依したかのようで近寄りがたいのだが、絵を学びに来ている人たちはすっかり慣れてしまっていて、悠揚として作品に取り掛かっていた。

 中折れ帽子に手をやって挨拶を返す北川フラムさんだったが、にこりともしない。暖かそうなチェスターコートを着たまま画廊の椅子に腰を下ろした。既に、ミーティングの時間になっていた。しかし古い楕円形のテーブルには、大川美術館の大川栄二館長と、当時の画廊主である父が向かい合って座り、毒舌を吐きながら愉快にやっている。二人とも脚を組み、どちらの黒い革靴も丹念に磨かれていた。父は、品定めするかのように北川フラムさんを眺めやった。ややあって大川館長に向き直ると、旧交を温めるのに余念がない風を装った。端から雲行きがよくなかった。

 もったいぶる二人が、宵の三ノ宮へと繰り出すと、ようやく実行委員会の初会合が始まった。北川フラムさんが若者たちを前に、越智さんを神戸市展実行委員会の代表に推した時も、別段驚かなかった。私にしても、越智さんに就いて貰いたいのは山々だったから。しかし公務員という立場上、越智さんは固辞せざるを得なかったのである(当時、神戸市立博物館に勤務されていた)。理由はそればかりではなかったと思う。既に京都市でかなりの成功を収めていたことから、賛同金の集まり方が鈍いのでないか、そうなれば日本事務局に6日分のギャランティーを支払えなくなる、それどころか実行委員会の存続さえ危ぶまれるのである。だが既存の組織に頼るなら、市民色が薄まってしまいつまらない。越智さんはその辺のところを看破し、考えあぐねていたのかも知れない。夜のトアロード筋を下っていた時、少し前を歩いていた越智さんが立ち止まり、私を振り返ると言った。「これからが大変なんだ。覚悟を決めなくては」

 神戸市展の場合、当初から社会党色が際立ったが、党派を超えた拡がりを期待して、一市民の自由意思による参加を掲げた。言い換えるなら、成り行き任せの五里霧中という訳だ。案の定、私のこだわりは資金集めを難しくさせた。それでも、展覧会期の短縮を検討する気にはなれなかった。神戸市が名実ともに国際文化都市であるならば、第一級の作品群を素通りさせてはならないのは勿論のこと、少なくとも6日間は開催したい。これ以上会期を削るなら、会場の混雑を招き、落ち着いて鑑賞ができなくなってしまう。また、曜日が合わず多くの人々が見送らざるを得なくなる可能性も高まる。知恵袋となってくれた萬世清次さんを大いに悩ませてしまった。「小磯(良平)さんが生きていてくれたらなあ」ゴールデンバットを吹かしながら彼はぼやいた、「一枚でいい、寄附してくれたら一発で片が付くんだが」。

 実行委員会の名称が〈事務局アクア〉と決まったので、専用の預金口座を開設する必要があった。アパルトヘイト体制への批難が高まり、真っ先に南アフリカから撤退した日本の銀行は、東京銀行だった。必然的にこの銀行を選ぶこととなった。ボイコットやバイコットは、簡単に取り掛かれる効果的な意思表示であるが、この場合はバイコットにあたる。更に言うなら、外国為替を専門とする行内の雰囲気と、モダニズム建築とが相まって、私は神戸支店が気に入っていた。そこで口座を開く、そう考えただけでも気分が上るのだった。
 他方ボイコットの対象となると、言うまでもないが「名誉白人」たちが利益を上げ続けている銀行、及び現金輸送車である。小説や映画では「襲撃もの」(caper)というジャンルがある。現金や宝石、美術品を強奪する過程を描くものだが、多くはチームで仕事をする。私がもっとも好きな映画は、ピーター・イェーツ監督の『ホット・ロック』(”The Hot Rock”1972年)だ。アフリカのダイヤモンドを巡る争奪戦だが、誰一人として死なない。徹頭徹尾、考え抜いたハッタリで勝負する。それが彼らの流儀なのだ。『ホット・ロック』のような粋で面白い作品に出合うと、銃を乱射し、ナイフを振り回す連中が唯の間抜けに映る。

 会合を終えると、北川フラムさんは新神戸駅へ向かい、越智さんとも別れた私は夜の街に紛れ込んだ。馴染みの扉を引いた途端、大川館長と父がカウンターの奥に陣取っているのが見えた。
 「やあ君、一緒にやりなさい!」館長はいつもの大声で言った。
 そのバーのマダムは、中山岩太の〈上海から来た女〉によく似ていた。だが煙草は呑まず、酒に至っては「きちがい水」と毛嫌いしていた。今の私には「きちがい水」と、素面で通す切れ者の彼女と話すことが必要だった。そうやって混沌とした頭の中を鎮めたかったのだが、それは望めそうもなかった。私は館長の隣に座った。
 すかさず父が、「ムネハル君、集めた金はすべてミサイルの購入に使いなさい」ウイスキーが声に沁み込んでいた。「プレトリアに撃ち込めばよろしい!」
 「黒人は差別されないと生きていけないんだ」そして館長はきっぱりと言い放った。「君たちのやっていることは間違っている!」
 「ミサイルの胴体にはね、〈トアロード画廊〉と書いておくこと」
 カウンターの向こうで聞いていたマダムが眉をひそめながら、彼らに何かを言った。豪胆無比な経済人、かつ稀有な美術収集家は更にまくし立てたが、やはり覚えていない。私は、木炭が何本あっても足りない状態だったのである。しかし、アパルトヘイト撤廃後の南アフリカ共和国で起きた事柄を振り返ると、大川館長の言わんとした実意が分かったように思う。彼にしてもアパルトヘイト体制には嫌悪感を抱いており、「名誉白人」という呼称を喜ぶ人ではない。だが、新自由主義信奉者たちの狡猾な罠にも気付いていたのではないか。そしてそれは、南アフリカの黒人にとって、どちらがまだましなのかという視座を取らせたのである。

 1990年2月11日、ネルソン・マンデラは獄中から解放された。国家反逆罪の名目で27年間も収監されていたのだった。それから4年後に南アフリカ共和国の大統領に就任、アパルトヘイト体制はようやく終わりを迎えた(1995年、「アパルトヘイト否(ノン)!国際美術展」の作品群は新政権に寄贈された)。ところが特権階級勢力の奸計により、新政権は経済支配を受け入れざるを得なくなってしまう。その為、民主化への道は混迷を極め、貧富の格差と困窮が拡大する。新しい支配の構造が誕生したとしか言いようがない。ダグ・ハマーショルドの遺書としての理念は、またしても活かされなかったのである。

6/22/1990 10:45:43 AM 
Nelson Mandela (ANC) Arrives at the United Nations 
Unique ID UN7770466

〈画廊ポルティコ〉
〈アートホール神戸〉

移動美術館倉庫トレーラー「ゆりあ・ぺむぺる」号。内蔵された赤いバルーンが迫り上がっている。ポートアイランド(神戸市中央区)にて撮影。



石橋 宗明

奥田 善巳展 / OKUDA Yoshimi(1931-2011)

京都府生まれ、兵庫県にて没。63年第15回読売アンデパンダン展に出品、65年神戸の美術家集団「グループ〈位〉」の結成に参加(67年まで)。67年国際青年美術家展で日本文化フォーラム賞受賞。68年「トリックス・アンド・ヴィジョン」展(村松画廊・東京画廊、東京)に出品し、翌年の「現代美術の動向」展(京都国立近代美術館)にも招待された。71年には第2回現代国際彫刻展(彫刻の森美術館)コンクール大賞受賞。「アート・ナウ’78」(兵庫県立近代美術館)に出品。不在と存在をテーマとする概念的な作品から、80年代以降は単色のストロークによる絵画へと移行した。京阪神の画廊で個展多数。2009年の神戸ビエンナーレ招待作家展「しなやかな逸脱」(兵庫県立美術館)に出品。没後、21年西宮市大谷記念美術館で個展が開催された(兵庫県立美術館開館20周年「関西の80年代」のカタログから)。

西宮市大谷記念美術館発行の『没後10年 奥田善巳-ネガとポジ・空間と平面-』(2021年)に詳細な年表あり。

 グループ「位」について。 以下は、千葉成夫『現代美術逸脱史 1945~1985』(晶文社、1986年)からの抜粋。

 グループ「位」は9人のメンバー(井上治幸、奥田善巳、河口龍夫、武内博州、豊原康雄、中田誠、向井孟、村上雅美、良田務)からなり、1965年6月に神戸の国際会館ギャラリーで第1回展を開いたが、この第1回展はまだ通常のグループ展とことなるところはなく、各人が作品をもちよって出品した。しかし、同年8月の岐阜における「アンデパンダン・アート・フェスティバル」においては、徹底した討論のすえに一致した意見、《穴を掘る》というインストラクションをみちびきだし、長良川の河原で灼熱の太陽のもとただ黙々と穴を掘りつづけ、一定の大きさになったところで予定どおりもとのように埋めなおす、という行為をおこなった。また、同年11月の神戸のダイワ画廊における第2回展「非人称展」では、9人のメンバーがまったくおなじ絵を2枚ずつ描いて展示し、作品の下に各人の氏名を明示するという展覧会を開いた。1966年1月、大阪のヌーヌ画廊における「E・ジャリ展」では、トラック2台分の砂利12トンを画廊内に山積みにし、同年4月、大阪の信濃橋画廊における第4回展「寄生虫展」では、オートバイ、看板、ベッドといった大物からさまざまな小物にいたるまでのおびただしい数の日常品を画廊にもちこみ(そのためにメンバーの人々は日常生活に不自由するほどだったという)、そのひとつひとつに紙粘土でつくってきれいに着色した寄生虫をとりつけた(pp.114-115. ちくま学芸文庫の増補版では、pp.167-168 に記述がある)。

ヌーヌ画廊に於ける奥田善巳の展覧会(1966年)

 越智裕二郎さんが、奥田善巳の作品について書かれています。兵庫県立美術館に在籍されていた頃のもので、奥田善巳作品《CO-684》1992年油彩を基にして文章に起こしています。
 「黒く塗られた地のキャンバスに、筆触を残しながらストローク(筆)が画面いっぱいに埋め尽くされています。一見この多弁にみえる太い筆触も、実はこの作家により厳密にコントロールされ、感情などを一切排した、平面にある秩序のみを求めた営為なのであることを、それまでの彼の仕事を見続けてきた者は、理解するのです。
 奥田善巳はもともとグループ「位」に属していた人。岐阜アンデパンダンの参加などかつてはインスタレーションや立体の仕事が中心であり、ステンレス・スティールの円筒を複数用いた作品により1971年には第2回現代国際彫刻展のコンクール大賞を箱根・彫刻の森で受賞しています。しかしその後は次第に平面での仕事を増やし、本作のようなストロークによる画面構成の作品は1980年代の初めから始まって、実に今日にいたるまで続いています。このことからも作者の平面に対する「秩序」への強靭な意志、現在のストロークによる画面構成という方法が、作者の営んできた美術行為の末たどりついた揺らぎのない方法であることを知ることができます。
 作者は作家でありながら、鋭い批評家であることでも知られていました。今はご病気によりその肉声を聞くことは叶いませんが、困難の度を加えつつある平面という仕事場において、ほぼ毎年発表される彼の個展は、定点観測のように関西の作家たちが観に来るのも事実。筆者もじっと観察しています。(兵庫県立美術館「ARTRAMBLE」VOL.14 2007年3月20日発行)」

斎藤 智 / SAITO Satoshi (1936-2013)

東京に生まれる. 東京藝術大学油画専攻(小磯良平教室)卒業.
1974年フルブライト奨学金を得て渡米、イリノイ工科大学で学ぶ.

1976年第10回東京国際版画ビエンナーレ国際大賞受賞.
1980年第5回ノルウェー国際版画ビエンナーレ展大賞受賞.

神戸大学で教える.

 

斎藤智

「Untitled」 82×105cm(シートサイズ)、2/9
チバクロームプリント、1975年

以下、中原佑介『現代芸術入門』(美術出版社、1979年)からの抜粋。

A- 写真は一種の視覚実験の手段になっているといえませんか。

B- 手段のような性格を帯びているといえるかもしれませんね。斎藤智になるとニュアンスが少し違っています。しかし、視覚のひねりということではディベッツと共通していないでもありません。斎藤は室内とか屋外の風景写真を撮り、それを引伸して大きなパネルにし、そのパネルを再び室内とか屋外に置いてもう一度(さらにそれをくり返して)写真を撮るということを試みている美術家です。

A- はじめに話に出た「写真をもう一度写真に撮る」というのに似ていますね。

B- ある面ではそうですね。風景写真のなかにもう一枚(数枚)写真があるわけですからね。この作品がおもしろいのは、写真としては同じ場所を二度(数度)撮っているのですが、二枚(数枚)の写真が時間のズレの表現になっていることです。

A- 同じ風景を対象にしている写真だが、写真のなかの写真の方が過去の風景だということですか。しかし、いわれて見るとなるほどと思うけれども、そのズレは眼には直接見えませんね。

B- 過ぎ去った時間を見ることは不可能ですからね。

 (pp.135-136)

 

 

 

 

 

斎藤 智 「酒場の画廊主」(仮題) 色鉛筆 24×15cm 1988年

IMGP3456_トリミング

柴山 水咲 / SHIBAYAMA Misaki 2024年開催予定

2011年 京都造形芸術大学 美術工芸学科 洋画コース卒業
2013年 京都造形芸術大学大学院 修士課程 芸術表現専攻修了
2013~2016,2019~ C.A.P. KOBE STUDIO Y3 アトリエアーティスト
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「同じ空」 606×606㎜(S12). 〈流れる色のシリーズ〉2022年    キャンバス、二水石膏、顔料、膠、澱粉、アクリル、ヨウ素混合液、VC、透明水彩、 油絵具、鉛筆.
「やみをどのようにくらく描いても」 530×652㎜(F15). 〈流れる色のシリーズ〉2022年   キャンバス、二水石膏、顔料、膠、澱粉、アクリル、ヨウ素混合液、VC、透明水彩、 油絵具、オイルバー、鉛筆.

「さいしょがいちばんあかい」
(左作品)

1303×970㎜ (F60) 2020年

キャンバス、二水石膏、顔料、膠、澱粉、アクリル、ヨウ素混合液、VC、透明水彩、

油絵具、鉛筆、オイルバー.

 

 

「やめることをやめる」

1303×970㎜ (F60) 2019年

キャンバス、二水石膏、顔料、膠、オイルバー、油絵具、鉛筆.

澤村 はるな / SAWAMURA Harun

1987年 兵庫県神戸市生まれ
2010年 京都市立芸術大学美術学部美術科日本画専攻卒業
2011年 交換留学(パリ国立高等美術学校)
2012年 京都市立芸術大学大学院美術研究科絵画専攻(日本画)修了
2014年 フィレンツェ研修
〈個展〉
2013年 Gallery Ort Project / 京都
2015年 トアロード画廊 / 兵庫
2017年 成城さくらさくギャラリー / 東京
2018年 Art Space MEISEI / 京都
     HAND IN HAND OKAMOTO GALLERY annex / 兵庫
2019、20、22年 WISH / 兵庫
2020、23年 歩歩琳堂画廊 / 兵庫
〈賞歴等〉
2011年 兵庫「県展」日本画部門大賞
2013年「雪梁舎フィレンツェ賞展」大賞
            「日展」入選
2014、15年「日春展」入選
2019 年「こうべ市民美術展」市民賞  他
(“KODOMO NO UTA 2022” TH企画 から抜粋)

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澤村はるな〈地球の涙に傘さす子〉 トアロード画廊での展示
81×162cm(4点)+ 81×122cm(2点)  鳥の子紙、水干絵具、岩絵具、色鉛筆、造花  2022年

澤村はるな
「腕(かいな)」F20. 2018年

谷守 佳代 / TANIMORI Kayo

1952年 奈良県宇陀市生まれ
2003年~ トアロード画廊

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「目指すは白い海」
キャンバス に油彩 53.0×45.5㎝.2020年
「水路を探して」
キャンバスに油彩 72.7×60.6㎝.2020年
「物語る家 その1」キャンバスに油彩 162.1×130.3㎝ 2012年
      「物語る家 その6」          キャンバスに油彩  72.7×60.6㎝ 2012年

西浦 絵理 展 / NISHIURA Eri

1967年 神戸市生まれ 

東京展美術協会会員 /関西展(原田の森ギャラリー、BBプラザ美術館)、東京展(東京都美術館)に2012年から毎年出品.
東京展に於いて2013年奨励賞、2018年優秀賞受賞.

2016年 第66回西宮市展 佳作(西宮市民ギャラリー)

2017年 第64回芦屋市展 LADS GALLERY賞(芦屋市美術博物館)

2018年 ギャラリー北野坂 (神戸)で個展

「うつる」 1455×1120mm(F80). キャンバス、アクリル、墨、木炭、パステル、紙 2022年
「うつる」(左作品) 180×120mm(P0). キャンバス、アクリル、墨、木炭 2021年                      「ふかいところ」 180×180mm(S0). キャンバス、アクリル、墨、紙  2021年 

Kai Glick / カイ グリック

Kai Glick

1998年 ニューヨーク市生まれ
2015年 Purdue大学ファインアートコンペティションにて入賞
2020年 Artist-in-Residence in Awaji Islandに応募し、淡路島にて制作活動
    カリフォルニア大学サンタバーバラ校卒業
2022年 パサディナ大学 美術修士課程

untitled.40.6 ×50.8 ㎝.2020
untitled.96.52×132cm.2021(各作品とも)

Kai Glick