奥田 善巳 / OKUDA Yoshimi(1931-2011) ②

 京都府生まれ。1963(昭和38)年第15回読売アンデパンダン展に初出品。1965(昭和40)年河口龍夫らと前衛美術集団グループ〈位〉を結成、以後第4回展まで出品。その後も1968(昭和43)年中原佑介・石子順造企画の「トリックス・アンド・ヴィジョン」展、1969(昭和44)年「現代美術の動向」展など、日本の現代美術史上の重要な展覧会に参加。存在と不在をテーマにしたコンセプチュアルなドローイングのほか、1980年代以降は細かいタッチを重層的に配したペインティングで同様のテーマに取り組んだ。2009(平成21)年神戸ビエンナーレ2009招待作家展「しなやかな逸脱」に出品。没後の2013(平成25)年には兵庫県立美術館で「コレクション展Ⅲ〈小企画〉奥田善巳展」が開かれた。長く神戸を拠点に活躍し、近年国際的な評価も高まっている。
(西宮市大谷記念美術館 収蔵品データベースから)

三菱倉庫屋上のアトリエ(神戸市中央区新港町)にて。 1986年夏。
©ISHIBASHI Muneharu

630-32
煙草を燻らせる奥田善巳。三菱倉庫屋上にあったアトリエにて。1986年冬。撮影者不詳。 奥に見える大作は、木下佳通代「‘86-CA323」oil on canvas、250×550cm、1986.

 かつてはかなりの悪童だった。バタフライナイフをちらつかせる喧嘩を度々演じていた。先代の画廊主は事あるごとに、「あのストリートギャングめ!」と過去を掘り返した。
 奥田さんに誘われ、幾度か三ノ宮のプールバーに立ち寄ったことがある。正確なショットの連続だった。もとより私にかなう相手ではない。「ビギナーは怖いなあ」と奥田さんは言う。「たのむからクロスを裂かないでね、ははは!」。酒は飲まなかった。胃が半分しかないから。
 眼つきの鋭さを隠すため、常にサングラスを掛けている。議論を楽しみ、場が白熱してきても淡々と話し続けた。妻の木下佳通代さんは、「また善巳さんに言い負かされちゃった」と、しょっちゅう悔しがっていた。二人は良きライバル同士だった。
 奥田さんは、際どい話しを沢山聞かせてくれた。でも後から考えてみると、担がれたように思うこともある。例えば、精管結紮術を麻酔なしで受けたというのは、かなり怪しい。では以下の述懐はどうだろう。
 「木下との生活が始まってから、犬を飼い始めたんだ。『アンジュール』っていう絵本を知ってる? ガブリエル・バンサンって人が描いたんだけど、素描風の絵も気に入っている。一匹の犬が捨てられてしまう話しなんだけど、最後にほっとするんだ。
 それでね、その犬だが、昔に飼っていたパコに似ているんだよ。我々によく懐いて、仲良しだった。仕事で仕方なく家を空けたことがあって、木下と一緒に。翌日の夜に帰宅してみると、ふらふらになって玄関に出てくるんだ。二人で抱きしめてやった。それ以降、僕か木下のどちらかが家に残ることにした。
 で、どうにもならんことだけど、とうとうパコが死んだ。我々は形見分けとして、パコの名を貰うことにした。木下はPA、僕はCOを貰った。でもこのことは、誰にも言ったことがない。だって、センチメンタル過ぎるだろう?」

追記:
記事の掲載後、奥田や木下と親しかったある画家が、二人はポコ(POCO)と呼ばれる雌犬を飼っていたと教えてくれた。
「『不二家』のペコちゃん、ポコちゃんのようなものでね。聞こえが可愛いでしょう?」
「ほんとうに、とっても可愛かった! でも13歳だったかな、腎不全で亡くなった」
奥田は犬の毛をほんの少し手元に残しておいた。自分が死んだら、柩に入れて一緒に火葬して欲しいと言うので、望み通りになった。
さて、POCOを形見分けするとなると、奥田のCOは該当するが、POは木下作品のどこに収まったのか? 実を言うと、私の記憶もポコだった。しかしそうした疑問が生じ、もしかすると、パコをポコと聞き違えたかも知れないと思い始めたのである。PACOのPAならば、木下作品の「タイトル」に用いられている。PACOはスペイン語では男性名の愛称なので、雄犬と推測した※。エスペラント語では「平和」「平安」を意味する。血気盛りに荒れた経験を持つ奥田にとっては、きっと尊い言葉だろう。しかし、POCOなのだった。そういう訳でこのエピソードは、再び迷宮に入ってしまった。
※因みに二人は、てっきり雄犬だと思って飼い始めたという。

石橋 宗明