2024.11.10 2024.11.09 東山 明 / HIGASHIYAMA Akira 東山明さんは、戦後美術教育の第一人者である。神戸大学名誉教授となられ、現在は自宅の書斎で研究を続けておられる。1937年三重県四日市で生まれ、今年で87歳である。私の恩師であり、先生なのだが、読者には関係の無いことであり、名高い美術教育者であることから、ここでは東山明と書き記す。 学問一途に進む前は、旺盛な創作活動の時期があった。今回、西宮市のご自宅に伺ったのは、奥田善巳、向井修二の三人で行った展覧会について教えていただく為である。1967年4月にトーア画廊(神戸市)で開催された、〈3人展シリーズⅠ〉と題されたものだ。奥田善巳がどのような作品を出品していたか、知っておきたかったのである。以下、鍵括弧内は東山明によるもの。 「トーア画廊のあった場所に、トアロード画廊が入った。実質的に、トアロード画廊のオープニング・セレモニーのようになった。端境期だったんだね。私は30歳だった。なぜか私と向井さん、奥田さんの三人に決まったんだ」。 企画の主体となったのは神戸新聞社である。展覧会案内状には、向井修二(具体美術協会会員)、東山明(記号美術協会会員)、奥田善巳(前衛美術会会員)とある。会期は4月3日から16日まで。奥田善巳は36歳だった。トアロード画廊の画廊主(石橋直樹)は、この展覧会については記憶に無いと言い張っていたという。 トーア画廊における東山明の作品(ビニール板、油性ペイント) 以下は『神戸新聞』1967年4月14日付、美術欄からの引用。見出しは「興味深い三人の競作」「所属会派を異にする県下在住の新鋭三人ずつの競作シリーズ第一回展である。今回の三人は従来、記号を駆使しての前衛作品を発表してきた顔ぶれだが、向井が自己の持つ世界の追究を執ように深めようとしているのに対して、奥田が新しい分野への傾斜を見せ、東山もビニール板の使用による試みを発表して興味深い。奥田の比較的、単純な色彩を駆使し画面から物の形を欠落させたような仕上げは、非常にさわやかな出来で、作者の成長が認められる。向井のかわいた単色が塗りつけられ記号の散らされた立体作品が発表する奇妙なムードは、やはり異色。東山の試みは、その冗舌ぶりがまだ幾分ひとりよがりである点に課題が残っている」(神戸トーア画廊、16日まで)=伊藤誠 奥田作品が写っている写真を見つけ出そうと、二人で幾冊ものアルバムを捲っていったのだが、どうしても見つからなかった。しかし既に私の関心は、東山明の作品に移っていた。信じ難いことだが、私はこれまで、東山が創作活動をしていた頃の作品をまったく知らずにいたのである。しかも残念なことに作品は残っておらず、モノクロ写真だけが頼りとなっている。もしこれらの作品が今でもどこかに眠っていたのなら、年明けにでも企画展を開催していたことだろう。写真で見る限りに於いてではあるが、その時代の趣を感じさせる、とても面白い絵画なのだ。 「作品はすべて、阪神・淡路大震災(1995年)の時に破損した。1点だけ残っているが、人に見て貰うほどのものではない。アトリエが傾いた。といっても4畳半しかない『置き場』だけど。もともとは父の家があった土地でね。『置き場』には須田剋太、元永定正の作品も保管してあった。私は神戸大学で教務委員長を務めていたので、学生の成績判定をいかにして行うかを教授会で決めなくてはならなかった。喧々諤々だったよ。それで、自宅のことは後回しになった。気が付いたら、アトリエのあった場所が更地になっていた。トラックと作業員が来て解体が始まったようなんだ。須田さんや元永さんの作品は惜しいことをした」(東山58歳の時)。 東山31歳の頃。「吉原治良さんが私の絵を見に、この家に来た事がある。彼が亡くなる3,4年前だったと思う*。吉原さんに電話を入れて、作品を見て欲しいと頼んでみた。ベニヤ板一枚半の大きな作品、120号位だからね、持って来られても困るということで、会社(吉原製油株式会社)の車でやって来た。どんな感想だったか、もう忘れてしまった」。 *吉原治良は1972年2月4日に死去。翌3月、具体美術協会は解散した。 朝日新聞1969年3月23日付「私の作品」欄で紹介された。〈作品1970〉120号、布キャンパス、アクリルペイント、1969年 記事に付された作者のコメント(東山明、31歳の頃)「人間不在の現代社会に対するやり場のない怒りを本能的にとらえて記号化し、画面に記録した。現代社会は記号ひとつで、すべてのことを解決しようと試みられ、そこに大きな問題が秘められていると思う。画面に記号を並べていると、社会の片すみで働く自分を見出すような気がするのだ」。 東山35歳の頃。「梅田新地のスナックで吞んでいたら、初めての店なんだが、しばらくして5、6人の人たちが入ってきた。吉原治良さんと、池上忠治さんの姿も見えた。私は奥のスタンドにいたので、わざわざ近くの席へと移ることもないと思ったんだ。でも、吉原さんを見たのはそれが最後となった。10日後だったか彼は他界した、急死だった」。 「松谷武判さんを始め、具体美術の人たちと面識を得ていた。正延正敏さん(妻*とは御影中学校の同僚で、どちらも美術を教えていた)、村上三郎さん(息子さんを小学校で教えたことがある)、嶋本昭三さん、今井祝雄さん(彼が大阪で開いた個展の会場で知り合った)といった作家とお話しすることができた(白髪一雄さんとは機会を逃してしまった)。大阪で〈記号絵画〉という個展をやった時も、具体美術の人たちが大勢見に来てくれた。彼らから影響を受けたし、私も具体美術に入りたいと思い始めた」。 *東山直美さんも優れた美術教育者であり、ご夫婦による共著も多い。 「その〈記号絵画〉だけど、1963年5月に『大阪画廊』(大阪市)で見せた(東山26歳)。記号絵画、あるいは超記号なんて、私が持ち出した言葉と概念なんだが。(同年の)京都アンデパンダンにも記号絵画を出してみたところ、針生一郎さんが色々と質問をしてきた、ディスカッションの際に(高階秀爾さんもパネラーとしてその場にいた)。面白いことに針生さんは『美術手帖』に、記号絵画論を書いたというんだ。それで、私の考え方を知りたかったんだね、私の言う記号絵画とは何かを。結構、考え方が似通っていた」。 大阪画廊に出品された「記号JAPAN」(F120) 1962年。布キャンパス、水性ペイント、石灰紛 京都アンデパンダン('63か'64年)に出品された「室ー24」(F120)1963年。布キャンパス、水性ペイント、石灰紛 東山の記号絵画は、第14回芦屋市展(1961年6月)にも出品され、その様子は平井章一編著『「具体」ってなんだ? 結成50周年の前衛美術グループ18年の記録』(兵庫県立美術館企画、美術出版社、2004年)32頁で窺うことができる。会場写真にある手前から二列目の展示パネル、左から3、4点目がそうである。 「25か26歳の頃は、小・中学校の図工科専科で教えていた。準備室をアトリエ代わりにして絵を描いていた。私のピークは25歳位かな。色々と試してみたけれど、峠を越したというか。そこで美術教育に専念した。38歳になり神戸大学教育学部美術科の講師になった(1975年)。二股を掛けていては、どちらも中途半端になってしまう。もう絵は発表しないと決めていた。もし制作を続けていたとしても、兵庫県レベルで終わっていただろうね。全国へと発表の機会を得てゆくのは難しかったと思う。自分の才能がどの程度かは分かっていた」。 子どもたちとの交流と観察を重視した東山明の美術教育論は実践的であり、国内外の多くの教育者から高い評価を受け、応用され続けている。彼から学ぶことは出来る。しかし東山のような教育者は稀な存在であり、授業風景を一変させるのである。題材を与えたり、技法を教えたりはする。しかし型どおりに進めるのではなく、後は子どもたちに委ねる。点数評価も余計な介入と見なす。多くの時間は見守ることに費やされ、子どもたち一人ひとりの中に美を、時には苦悩を見出し表現へと導いてゆく。端的に言うならば、個性と創造力の解放であり、これは人間形成を補助する一環となる。藝術家のみが成せる業である。 清々しい気持ちでおられる東山とは違い、それにしても、作品もまた残っていて欲しかったものだと未練たらしい私は、作品写真の一部をお借りし、ここに掲載することにした。 この聞き取り記録は、東山明さんの許諾を得て掲載しました。文責は取材者(石橋)にあります。 2024年11月8日 石橋宗明