木下 佳通代 / KINOSHITA Kazuyo(1939 - 1994)

三菱倉庫屋上のアトリエ(神戸市中央区新港町)にて。1986年夏。      ©ISHIBASHI Muneharu

神戸市に生まれる。1962(昭和37)年京都市立美術大学西洋画科を卒業。1963(昭和38)年から京都アンデパンダン展に出品。1965(昭和40)年河口龍夫、奥田善巳らによって結成されたグループ〈位〉と行動を共にする。1973(昭和48)年頃から写真を用いたコラージュやドローイングを発表し始め、1977(昭和52)年第13回現代日本美術展に出品した《’77-D》で、兵庫県立近代美術館賞を受賞。国際的にも高く評価され、1981(昭和56)年にはドイツ・ハイデルベルクでも個展を開催した。1982(昭和57)年頃からは再び油絵に取り組み、力強い筆線と鮮やかな色彩による画面構成を試みた。時間や空間を、平面上に描くことによってとらえ直す姿勢は、その初期から一貫している。
(西宮市大谷記念美術館 収蔵品データベースから)

三菱倉庫屋上のアトリエ(神戸市中央区新港町)にて。1986年夏。      ©ISHIBASHI Muneharu

2024年5月、大阪中之島美術館において「没後30年 木下佳通代」が開催されます。詳しくは、美術館ホームページでご確認下さい。

1981年12月13日~1982年1月10日の期間、ドイツのハイデルベルク美術協会(Heidelberger Kunstverein)主催により、木下佳通代の個展が開催されました。内容は、1976年から1980年制作の写真を用いた作品です。以下の文章は、その個展に向けて、美術評論家の中原佑介が用意したものです。カタログのページに貼り付けてあったものを掲載します。恐らくドイツ語に翻訳される前の、原稿の写しであろうと思います。

木下佳通代の作品は、表面のもつ機能の多義性に根ざしている。

よく知られているように、今世紀の美術において、この表面の多義的な機能に眼を向けた最初は、立体派の時期のピカソやブラックであった。彼らはパピエ・コレの手法によって同一のキャンパスの表面は描かれる場であると同時に、壁紙や新聞紙などが貼られる平面であるというように、機能の二重性を明らかにしたからである。

しかし、表面の多義性は、描くことと貼ることという極端に異質な行為の共存でなく、一見するとそう見えないやり方によっても古くから活用されてきたのである。描くことと書くこと、つまり絵と文字の共存がそれである。ヨーロッパでも東洋でも、絵と文字の共存の歴史は古い。ついでにいえば、パピエ・コレの手法をうみだした立体派の絵画が、また絵と文字の共存を復活させたことは偶然ではないだろう。

木下佳通代が関心を寄せたのは、表面を、一方では写真による映像の場であると同時に、他方では線をひく、つまりドローイングの描かれる面として二義的に把握することであった。いうまでもなく、写真の映像は現実の光景の転換によるイリュージョンであるのに対し、ドローイングは平面の上でつくりだされる別種のイリュージョンである。ドローイングは写真を侵犯し、写真はまたドローイングを規制する。こうして第三のイリュージョンが形成される。これが木下佳通代の作品である。このドローイングがエアーブラシによる彩色に変わっても、事情はまったく変わらない。木下佳通代のこうした方法による作品において、写真による映像とドローイングや彩色の関係が文字と絵の関係に似ていることに注目したい。というのも、写真は彼女にとって外から与えられたものという性格をもつのに対し、線をひくのは主体的な行為だからである。つまり、写真は今日われわれにとって言語(=文字)に近い媒体であるのに対し、ドローイングは絵画に近い。その結果、彼女の作品は構造的には絵と文字の共存に似ているのである。因みにいえば、この言語化している写真をもっとも絵画へひきもどそうとしたのがハイパーリアリズムであった。

描かれる面としての紙面と物質としての紙という二重性も、彼女の作品に示されているもうひとつの二重性である。これがドローイングと写真の二重性のヴァリエイションであることは容易に推測される筈である。

中原佑介