2024.09.14 2023.06.24 萬世 清次 / MANSE Kiyotsugu(1947~2004) ② 当時トアロード画廊は、神戸市中央区のトアロード筋にあった。 毎初春に開催される萬世清次個展は、趣に欠けるお屠蘇に辛抱してきた男たちにとって「縁起物」だった。各々が密かに蒐集した、徳利や盃を披露する場でもあったのだ。1995年の会期は、1月4日から14日まで。個展が終了して3日目、17日の明け方だったが、都市直下型地震が起きた。萬世作品はまだ壁にあり、搬出はその日の午後から行う予定だった。 「展示作品のことは諦めていた。考えている余裕さえ無かった」萬世清次さんは後に私に語った。「ところが、ほとんどが無傷のまま壁に掛かっていた。これにはお父さん(当時の画廊主)に感謝したよ。ちゃんと、ヒートンと紐を使っていてくれたからなんだ」 カンヴァスは上下左右に激しく揺さぶられたが、紐が柔軟に動いた為、Xフックから跳ね上げられずに済んだのである。釘2本を壁に打ち込み、そこへカンヴァスの木枠を引っ掛ける展示方法をよく用いていたが、もしそうしていたならば忽ち作品は落下し、諸々の物品と共にミキサーに掛けられていたことだろう。 飛散するアスベストを吸い込まないように、街中では防塵マスクを着けていた。メリケンパークまで南下しマスクを外し、深呼吸をした。雨の中、多くの市民がヘリコプターの到着を待っていた。どこもかしこも、ざらついた非日常だった。出歩く際には、ドミニク・ラピエール&ラリー・コリンズの『パリは燃えているか?』をコートのポケットに滑り込ませた。私を励ましてくれたから。だがもし、この状況に原子力災害が加わっていたなら、早々に逃げ出す算段をしていたことだろう。復興への希望など見出せないからだ。 激震から二か月後、友人が運転する車で六甲山に向かった。すんなりと山頂まで辿り着くことができた。そこには防衛施設庁の六甲無線中継塔があり、全国の陸上自衛隊駐屯地を電波で結んでいた。公園敷地内には、通信部隊の車両が多数入っており野営しているようだった。六甲最高峰から東のルートは通行止めになっていた。崩落でもあったのだろう。私たちはドライヴウェイを引き返し、市章山・錨山と呼ばれる中腹で車を降りた。ダリウス型風力タービンと太陽電池パネルの様子を見たかったのだ。これらの自然エネルギー発電システムは、斜面に広がる神戸市市章と錨の電飾を点灯させる為に使われている。発電システムが無事であることは分かっていた。夜の三ノ宮が闇に包まれていても、六甲山を見上げるなら、二つの大きな電飾が煌々と点っていたからである。 太陽電池パネルの側に展望台があり、そこからは市街地やメリケンパーク、ポートアイランド、左に六甲アイランド、更に泉州をうっすらと眺めることができた。市街地には、屋根を青いシートで覆った家屋が随所に見られた。青いシートは、ゼネラルコントラクターが善意で配ったものだ。この応急措置により、幾分か風雨を防ぐことができる。しかし一方で、それらはゼネラルコントラクター(総合建設業者)の占有を予見させる旗でもあった。私はアンビバレントな気分に陥った。このままでは、彼らと有力者たちの思惑のみで復興が進み、神戸はどこにでもあるつまらない街と化してしまう。 そこで私は、復興計画の中に、再生可能エネルギー・省エネルギー技術のモデル都市構想を組み入れるように提言した。神戸市役所や兵庫県庁内に、復興に向け市民の意見を聞く臨時のセクションが設けられていたのである*。様々な再生可能エネルギー技術、天然ガスや燃料電池を電源とするコージェネレーション・システムを用い、あるいは新たに開発することで、分散型エネルギー供給社会へと変えてゆく。神戸は進取の気風に富み、自然環境に恵まれた街なのだから、こうした特性を生かさない手はない。*神戸市市長室広報相談部広聴課は、『「神戸の復興に向けての提言募集」提言集』を1995年5月に発行している。 六甲山頂の公園を、ダリウス型風力タービンを複数基設置したウインドファームにするという案も盛り込んでおいた。新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の「全国風況マップ」(平成6年度版)を参照し、六甲山岳地帯では毎秒10メートル以上の平均風速が観測されることを根拠の一つにした。鳥の衝突を回避する工夫をすれば、取り立てて自然界に迷惑を掛けることはなさそうだ。むしろ目障りな無線中継塔を撤去できる。デザインの美しいダリウス型風力タービンが立ち並ぶ様は、観光名所ともなるだろう。 そうした復興提言を幾度となく送付したが、結局、顧みられることはなかった。被災者支援は別として、 街並みの復興だけを言うのであれば順調に進んだ。しかし、見所の無いつまらない街となってしまった。住民投票請求を退け、躍起になって神戸空港を作った人たちがいたが、出来上がった代物がまた象徴的だ。理想と理念、そして美意識が欠落し、ただお金だけが舞った。私は従来、かなりの「コーベリアン」であったが、今ではすっかり鼻白み、どうでもよくなってしまった。 石橋 宗明