奥田 善巳展 / OKUDA Yoshimi(1931-2011)

京都府生まれ、兵庫県にて没。63年第15回読売アンデパンダン展に出品、65年神戸の美術家集団「グループ〈位〉」の結成に参加(67年まで)。67年国際青年美術家展で日本文化フォーラム賞受賞。68年「トリックス・アンド・ヴィジョン」展(村松画廊・東京画廊、東京)に出品し、翌年の「現代美術の動向」展(京都国立近代美術館)にも招待された。71年には第2回現代国際彫刻展(彫刻の森美術館)コンクール大賞受賞。「アート・ナウ’78」(兵庫県立近代美術館)に出品。不在と存在をテーマとする概念的な作品から、80年代以降は単色のストロークによる絵画へと移行した。京阪神の画廊で個展多数。2009年の神戸ビエンナーレ招待作家展「しなやかな逸脱」(兵庫県立美術館)に出品。没後、21年西宮市大谷記念美術館で個展が開催された(兵庫県立美術館開館20周年「関西の80年代」のカタログから)。

西宮市大谷記念美術館発行の『没後10年 奥田善巳-ネガとポジ・空間と平面-』(2021年)に詳細な年表あり。

 グループ「位」について。以下は、千葉成夫『現代美術逸脱史 1945~1985』(晶文社、1986年)からの抜粋。
 グループ「位」は9人のメンバー(井上治幸、奥田善巳、河口龍夫、武内博州、豊原康雄、中田誠、向井孟、村上雅美、良田務)からなり、1965年6月に神戸の国際会館ギャラリーで第1回展を開いたが、この第1回展はまだ通常のグループ展とことなるところはなく、各人が作品をもちよって出品した。しかし、同年8月の岐阜における「アンデパンダン・アート・フェスティバル」においては、徹底した討論のすえに一致した意見、《穴を掘る》というインストラクションをみちびきだし、長良川の河原で灼熱の太陽のもとただ黙々と穴を掘りつづけ、一定の大きさになったところで予定どおりもとのように埋めなおす、という行為をおこなった。また、同年11月の神戸のダイワ画廊における第2回展「非人称展」では、9人のメンバーがまったくおなじ絵を2枚ずつ描いて展示し、作品の下に各人の氏名を明示するという展覧会を開いた。1966年1月、大阪のヌーヌ画廊における「E・ジャリ展」では、トラック2台分の砂利12トンを画廊内に山積みにし、同年4月、大阪の信濃橋画廊における第4回展「寄生虫展」では、オートバイ、看板、ベッドといった大物からさまざまな小物にいたるまでのおびただしい数の日常品を画廊にもちこみ(そのためにメンバーの人々は日常生活に不自由するほどだったという)、そのひとつひとつに紙粘土でつくってきれいに着色した寄生虫をとりつけた(pp.114-115. ちくま学芸文庫の増補版では、pp.167-168 に記述がある)。

ヌーヌ画廊に於ける奥田善巳の展覧会(1966年)

 越智裕二郎さんが、奥田善巳の作品について書かれています。兵庫県立美術館に在籍されていた頃のもので、奥田善巳作品《CO-684》1992年油彩を基にして文章に起こしています。
 「黒く塗られた地のキャンバスに、筆触を残しながらストローク(筆)が画面いっぱいに埋め尽くされています。一見この多弁にみえる太い筆触も、実はこの作家により厳密にコントロールされ、感情などを一切排した、平面にある秩序のみを求めた営為なのであることを、それまでの彼の仕事を見続けてきた者は、理解するのです。
 奥田善巳はもともとグループ「位」に属していた人。岐阜アンデパンダンの参加などかつてはインスタレーションや立体の仕事が中心であり、ステンレス・スティールの円筒を複数用いた作品により1971年には第2回現代国際彫刻展のコンクール大賞を箱根・彫刻の森で受賞しています。しかしその後は次第に平面での仕事を増やし、本作のようなストロークによる画面構成の作品は1980年代の初めから始まって、実に今日にいたるまで続いています。このことからも作者の平面に対する「秩序」への強靭な意志、現在のストロークによる画面構成という方法が、作者の営んできた美術行為の末たどりついた揺らぎのない方法であることを知ることができます。
 作者は作家でありながら、鋭い批評家であることでも知られていました。今はご病気によりその肉声を聞くことは叶いませんが、困難の度を加えつつある平面という仕事場において、ほぼ毎年発表される彼の個展は、定点観測のように関西の作家たちが観に来るのも事実。筆者もじっと観察しています。(兵庫県立美術館「ARTRAMBLE」VOL.14 2007年3月20日発行)」