ウィリアム・シェイクスピアの戯曲を読んでいると、現代劇としてこのまま上演できるのではないかと思うことがあります。随分前のことですが、スティーヴン・バーコフ劇団による『コリオレイナス』をNHKテレビで観たことがあります。武将と市民との確執を主題とする政治劇です。原作では古代ローマが舞台ですが、バーコフの演出により、調度品はモダンなものになり、登場人物の多くが背広姿です。彼もまた、似たようなことを考えていたのかも知れません。イアン・マッケランがリチャード三世を演じる映画作品(1995年)は、ナチスと第二次世界大戦、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争へと連なる心象が濃厚に立ち上がります。
文学や演劇、映画作品には度々、悪性ナルシシズムや反社会性パーソナリティ障害と目される人物が登場します。カミュの戯曲『カリギュラ』と並び、シェイクスピアの『リチャード三世』も、深刻な病的パーソナリティを有する権力者を描いています。何が起きているのかを看破しています。現代社会に於いても尚、強欲や支配欲、不寛容とサディズムが、強弱を伴って腐臭を漂わせます。そうした破壊の不条理が何処から来るのか、どのように作用するのかを研究し、抗い、闘わなくてはいけません。その為にも私は、上記の文藝作品を、思索を深めてくれる対話の相手として選びます。
2012年、イギリス中部レスター市の駐車場建設現場から柩が出土し、収まっていた骸骨がリチャード三世であることが分かりました。子孫のDNAと比較したのです。強度の後彎症(こうわんしょう)を確認でき、頭蓋骨に集中している多くの傷が、致命傷となったことなどが分かりました。その頭蓋骨をもとに復顔したところ、どこにでもいそうな青年の顔立ちになったので、シェイクスピアが描く醜悪な容貌とはかけ離れている、ということになりました。シェイクスピアは、トマス・モアが著した『リチャード三世王の歴史』を参照しながら戯曲を書き上げました。作家は持ち前の想像力を発揮して、物語を面白くしなくてはなりません。古い資料を基に、あれこれと手を加えるのですが、著しい身体的特徴もまた登場人物の性格設定に利用したことでしょう。シェイクスピアを手本としたのか、トマス・ハリスは『レッド・ドラゴン』で同様の手法を用いています。しかし人は、身体的特徴とはまったく無関係に冷血漢になれることを、デヴィッド・リンチ監督は表現主義的な作品『エレファント・マン』に於いて、鮮烈に突きつけています。
読み手や観客は、慎重さを以て作品に接する必要があります。そうした考慮を経ても尚、『リチャード三世』が、病的パーソナリティの本質と破壊的な影響を的確に捉えている戯曲であることは揺るがないのです。作家は惨禍を生み出すに至る、原初からの理をも描き出します。まともな愛情に触れることもなく成長した人間は、どの様なパーソナリティを「獲得」するのか。シェイクスピアの研究で知られるスティーヴン・グリーンブラットは、以下のように述べています。
「シェイクスピアは、身体的な奇形が道徳的な歪みを表すとする当時の文化を否定はしない。自然なのか神なのかはともかく、より高度な力が、悪党の邪悪さを目に見える形にしたという考え方を観客に許している。リチャードの身体的奇形は、その邪悪さの超自然的刻印ないし象徴なのだ。しかし、当時の文化の支配的な流れに抗して、その逆もまた真なりとシェイクスピアは主張する。リチャードの奇形 ―と言うよりむしろ、その奇形に対する社会の反応― が、その精神病理学の根本条件なのだ。常にそうだというわけではない。もちろん、背骨が曲がっていると狡猾な人殺しになるわけではない。しかしながら、母親に愛されず、同胞から嘲笑され、自分を怪物と認識せざるを得なくなった子供は、それを補う心理的な方策を講じ、破壊的だったり自滅的だったりする行為に及んだりするものだということをシェイクスピアは示唆している」(スティーブン・グリーンブラット『暴君 ―シェイクスピアの政治学』pp.70-71、河合祥一郎訳、岩波新書、2020年)。
更にグリーンブラットは、病的ナルシシストの特徴を列挙しており、以下に一部を引用しますが、これらは即ち、シェイクスピアの人間観察と洞察を基にしたものなのです。先の引用と同様、シェイクスピアの天才ぶりを窺い知ることができ、フロイトやエーリッヒ・フロム、ウィルヘルム・ライヒといった学者たちの大先輩でもあったことに気付かされるのです。
「シェイクスピアの『リチャード三世』は、『ヘンリー六世』三部作が描いてきた野心満々の暴君の特色を見事に発展させる。際限のない自意識、法を破り、人に痛みを与えることに喜びを感じ、強烈な支配欲を持つ人物。病的なナルシシストであり、この上なく傲慢だ。何だってやれると思い込み、自分には資格があるとグロテスクに信じている。怒鳴って命令するのが好きで、命令を実行しようと手下どもが走り回るのを見るのに無上の喜びを感じる。絶対的忠誠を期待するが、自分は人に感謝することなどできない。他人の感情などどうでもいい。生まれついて品などないし、情もなければ礼儀も知らない。
暴君は、法に無関心なだけではなく、法を憎んでおり、法を破ることに喜びを感じる。法が憎いのは邪魔だからだ。法があるのは皆のためだが、皆のためなんて糞くらえなのだ。この世には勝ち組か負け組しかおらず、勝ち組の連中は、役に立つ限りにおいて尊重してやるが、負け組などには軽蔑しか感じない。皆のためなんて、負け組が口にすることでしかない。自分が話したいのは、勝つことだけなのだ」(同上p.66)。
〈参考記事〉
朝日新聞2017年5月16日付『文化・文芸』
朝日新聞2014年11月17日付『文化の扉』(歴史編)
石橋宗明