‘All the President’s Men’
Director Alan J.Pakula speaking to actors Robert Redford and
Dustin Hoffman on the sets of the film ‘All the President’s Men’, 1976. (Photo by Warner Bros Inc/Getty Images)
ハンプティ・ダンプティ へいにすわった
ハンプティ・ダンプティ ころがりおちた
おうさまのおうまをみんな あつめても
おうさまのけらいをみんな あつめても
ハンプティを もとにはもどせない
(『マザー・グース』1、谷川俊太郎訳、講談社文庫、1981年)
『大統領の陰謀』(1976年. 原題All the President’s Men《*1》)は、とても良くできた面白い映画だ。しかし実のところ、クーデターを隠蔽する為のプロパガンダ作品でもある。制作の仕事もこなしたロバート・レッドフォード(*2)は、軍産複合体のプロパガンダに一役買ってしまったことになる。それに気付いた彼は、恐らく衝撃を受け、とても苦々しく思ったことだろう。CIAの謀略を描いた前年の『コンドル』(1975年. 原題 Three Days of the Condor)が、映画史に残る傑作サスペンスであっただけに、尚更だと思う。
とは言うものの『大統領の陰謀』は、権力の不正や横暴から目を背けようとしないロバート・レッドフォードの大きな道義心に貫かれ、壮厳でさえある。いっそのこと割り切って、事件をモデルとしたフィクションとして観るのもよいと思う。
全ての俳優が上手くいっている。殊に、編集主幹ベン・ブラッドレー役のジェーソン・ロバーツの演技が素晴らしい(*3)。ダスティン・ホフマン、ジャック・ウォーデン、マーティン・バルサム(『警視の告白』〈1971年〉は必見作だが、日本語字幕付DVDは未発売)、ハル・ホルブルック、写真と電話音声のみの出演だったパトリック・オニール、ジェーン・アレクサンダーの知的な美しさには、リベラルな人柄がそのまま煌めいている(主演作『テスタメント』〈1983年〉もまた、日本語字幕付DVD未発売)。
映画制作に心血を注ぐレッドフォードに呼応するかのように、名だたる俳優たち、監督、製作者が高潔なところを見せ、才能を発揮したのだ。陳腐へと陥るはずだったプロパガンダ映画が、芯のある藝術作品へと昇華されたのである。
NHK BSプレミアムで『アナザーストーリーズ/ホワイトハウスの陰謀~ウォーターゲート事件46年目の真実』(2018年)という番組を見ていると、証言台に立ったハワード・ハントがこんなことを言っていた(おそらく、連邦議会の証人喚問)。「私の妻が事故死し、子どもたちの暮らしを何とかする必要がありました。裁判で多額の費用が掛かって、金はもう底をついていました。そして何より、政府が自分や家族を守ってくれなかったことに失望したのです」。これは、ホワイトハウスから脅し取った20万ドルの行方を問われた際の返答である。翻訳をそのまま書き写しただけで、実際のニュアンスを検証できているわけではないが、ハントは、妻の死の真相を知ってはいるが、残された息子たちに危害を加えない限り、はした金で黙っていてやる、という含みを持たせているようにも聞こえる。ハントの妻ドロシーは、1972年の夏から秋にかけて、口止め料の受け渡し役を引き受けていた。そして12月8日、ユナイテッド航空553便が住宅街に墜落し、搭乗していたドロシーも死亡する。飛行機は、ワシントン・ナショナル空港を飛び立ち、シカゴ・ミッドウェイ国際空港に着陸しようとしていた。墜落の原因ははっきしていない。
その直後、数十人ものFBI捜査官が現場に集結していた。何かを捜していたのだろう。ドロシーの財布から現金で1万ドルが見つかったが、口止め料の一部である可能性がある。しかしFBIは、そのことには関心が無かったようだ。
ドロシーの死について別の証言があり、大統領首席補佐官H・R・ハルデマン(ホールドマンと表記することもある)によると、「シカゴ行きの墜落機のなかから何千ドルもの現金を持っているハント夫人の遺体が発見された。彼女は侵入犯人たちへの支払係だった。しかし彼らは、ワシントンとマイアミで拘留されていた。なぜ彼女は、現金を持ってシカゴに向かったのか?」。またハルデマンは、ハントがこうも強欲になるのは解しがたいとしている(口止め料としてハントに渡った金は、総額35万ドルだとハルデマンは述べている。当時の日本円に換算して意味があるのかどうか分からないが、1億円以上にはなる)。更に、ニクソンがハントの為に、多額の現金を急いで調達しようとしたのも不可解だと言う( H・R・ハルデマン『権力の終焉』、大江舜訳、サンリオ、1978年、pp.314~315)。
ウォーターゲート事件は迷宮入りに等しいので、熱心な研究者であっても腑に落ちない点が多々あることだろう。私は、証言の食い違いや不明瞭な箇所等からは一旦離れ、事件が入れ子構造になっていることに注目したい。するとまた違った視界が開けてくる。以下、まだまだ断片的な記述になってしまうのだが、ペンタゴン・ペーパーズ漏洩事件からの経過を見てゆく。
スティーヴン・スピルバーグ監督『ペンタゴン・ペーパーズ』(2017年. 原題The Post)にも描かれていたが、ベトナム戦争の実態を報告した極秘文書ペンタゴン・ペーパーズを、執筆者でもあるダニエル・エルズバーグが、勤務先のランド研究所からこっそり持ち出し、反戦・平和活動の人々の助けを借りて、ニューヨーク・タイムズの記者ニール・シーハンに届けたのである。最初の記事は、1971年6月13日に掲載された。更にワシントン・ポストにも持ち込まれ、同年6月18日に第一面を埋めている。
レン・コロドニーとロバート・ゲトリンの著書『静かなるクーデター 「ウォーターゲート事件」20年後の真実』によると、ニューヨーク・タイムズなどの新聞が、ペンタゴン・ぺーパーズ(国防総省機密文書)の抄録を掲載し始めたので、「国家安全保障担当補佐官ヘンリー・キッシンジャーは、これに激怒した。このペンタゴン・ぺーパーズは当時の雇い主リチャード・ニクソンとはほとんど無関係だったが、自分が顧問を務めたケネディ、ジョンソン政権とヴェトナムとの関わりを詳細に扱っていたからである。キッシンジャーは、対ヴェトナム政策の策定において自分が果たした役割が暴露されることを恐れ、その文書が公表されれば国家の安全に対する重大な脅威になるとニクソンに説いた。ペンタゴン・ぺーパーズがキッシンジャーの元同僚ダニエル・エルズバーグによって報道機関に渡されたことが分かると、大統領執務室はエルズバーグの信用を傷つける猛烈なキャンペーンを展開しだした」(『静かなるクーデター「ウォーターゲート事件」20年後の真実』、猿谷要監修、斎藤元一・柴田寛二訳、新潮社、1993年、p.132)。
内部告発者エルズバーグは、精神科医の診察を受けていたことがあり、そのカルテを手に入れる為、クリニックへ侵入した者たちがいた。チームリーダーはハワード・ハント(元CIA工作員、ホワイトハウス非常勤職員、キューバのピッグス湾上陸作戦に従事)、ゴードン・リディ(元FBI捜査官、元地方検事、ニクソン再選委員会財務顧問)である。彼らの狙いは、エルズバーグの人格を貶めることにあった。この不法侵入と窃盗は、ウォーターゲート事件追及の過程で露呈する。なぜなら、民主党全国委員会本部への侵入事件もまた、ハワード・ハントとゴードン・リディが指揮を執っていたからである(現行犯逮捕されたのは4人の亡命キューバ人、そして元CIA局員でニクソン再選委員会警備主任ジェームズ・マッコード)。
ハワード・ハントは何かと疑惑の多い人で、ジョン・F・ケネディ大統領がダラスのディーリー広場で暗殺された時も、草の生い茂った丘の後方、鉄道線路上の貨車の中にいたところを、地元警察官に見つかり連行されている。その時、フランク・A・スタージスも一緒だった。スタージスはウォーターゲート・ビル侵入犯の一人である。しかしロックフェラー委員会の調査報告書には、連行された「浮浪者たち」の中にハントやスタージスは含まれておらず、まったくの誤認であると結論付けられている(ロックフェラー委員会報告『CIA アメリカ中央情報局の内幕』、毎日新聞社外信部訳、毎日新聞社、1975年、pp.246~247)。いかにもハントの性分のように思えるのだが、ケネディ大統領が暗殺された日、自分がどこで何をしていたのか、どうしても思い出せないと繰り返す。だが、思い出したい時に思い出すこともできる、そんなニュアンスも感じる。ハントは、政府高官を脅迫するネタを目ざとく見付け出し、いざという時の為に大事に取っておく策士なのだろう。
もう一人、リチャード・ニクソンもまた、その11月22日の記憶があやふやである。当時の彼は、カリフォルニア州知事選に敗れた後、ペプシコの顧問弁護士をしていた。ウォ―レン委員会での供述では、その日の午前はニューヨークにいたことになっている。だが実際は、ダラスの飛行場を早朝に飛び立っているのだ。なぜ彼は、当地で朝を迎え、ニューヨークへ向かう約3時間半を機上で過ごした、と言えなかったのか? 李下に冠を正さず、といった忠告でも受けたのだろうか? (ロバート・サム・アンソン『彼らは大統領を撃った』和田敏彦訳、角川書店、1976年、p.255を参照)。
カール・バーンスタインとボブ・ウッドワードの共著『大統領の陰謀』(映画の原作。タイトルも同じ All the President’s Men)は、1972年6月17日、土曜日の朝、ウッドワードが電話で叩き起こされる記述から始まる。ウォーターゲート・コンプレックス内にある民主党全国委員会本部に5人の男たちが侵入して逮捕された、出社できるか? というものだった。この時、ウッドワードはポスト紙に入社してからまだ9か月しか経っていなかった。とすると、1971年9月にワシントン・ポストに採用されたということになる。そしてそれは、ペンタゴン・ペーパーズの暴露があった3か月後である。
ワシントン・ポストの若手記者、カール・バーンスタイン(当時28歳)とボブ・ウッドワード(当時29歳)は、私にとっても憧れの対象だった。しかし同時に、ボブ・ウッドワードの特別な人脈には疑問を抱いていた。
ウッドワードは、「CRPとホワイトハウスの両方で情報を入手できるニュース・ソースを行政府に持っていた」(CRPは大統領再選委員会。ニュース・ソースは所謂ディープ・スロート)ということだが、「ポスト紙に入社してまだ九か月の」三十歳にも満たないウッドワードが、有力な人脈を持つことができたのは、身内に行政府関係者がいたからだろうか? それとも、アメリカ海軍在籍中に培ったものなのか? あるいは、一年間勤務した週刊誌モントゴメリー・カウンティー・センティネルで?
「ウッドワードは、社内政治に浮身をやつす食えない男だ。そつがない。エール大学出身。退役した海軍将校。芝生や庭園、大広間、芝草の茂るテニス・コートをバーンスタインは想像した」(カール・バーンスタイン&ボブ・ウッドワード『大統領の陰謀』、常盤新平訳、立風書房、1974年、p.15)。その毛並みの良さから、行政府に有力な知人の一人や二人いても不思議ではない。また、匿名のニュース・ソースの身許は厳秘である。私は気に留めないことにした。
だが前出の『静かなるクーデター「ウォーターゲート事件」20年後の真実』を読んでからというもの、私も慎重になった。イェール大学を卒業後、海軍士官となったボブ・ウッドワードは、1965年から67年まで戦闘司令艦「ライト号」に乗船し、「無線回線管理係として膨大な通信システムを操作する仕事に従事した」。67年から69年までは、誘導ミサイル・フリゲート艦「フォックス」に通信士官として乗務、「北ヴェトナムに対する直接空爆支援もした」。大尉に昇格後、ワシントンに着任。ペンタゴンとホワイトハウス間の通信連絡将校として、アレクサンダー・ヘイグ将軍に仕える。ヘイグは1973年にホワイトハウス首席補佐官に任命され、その翌年、ニクソンはホワイトハウスから放逐されるのである。
広瀬隆『アメリカの保守本流』(集英社新書、2003年)にも、ボブ・ウッドワードに関する興味深い報告がある。
「ウッドワードはエール大学で保守主義者として活動し、それがワシントン政府の目に止まってCIAに招かれ、ヴァージニア州ノーフォーク海軍基地に配属後、68年からベトナム戦争に参戦した。駆逐艦フォックスの諜報部で無線通信部長という要職を与えられたのである。その後は、軍部高官や後年のCIA長官スタンスフィールド・ターナーらと密着して活動したことが知られ、ウッドワードはなぜか情報組織を離れ、“ワシントン・ポスト”に社会部記者として入社する。そしてまもなく一つの事件を追及し始めた。大統領選たけなわの72年6月17日、民主党全国委員会本部ウォーターゲート・ビルに盗聴器を仕掛けようとした侵入犯5人が逮捕されるという奇妙な事件だった」(p.231)。
「現在この事件を見直すと、不思議な人脈が動いていたという事実が浮かび上がる。それはボブ・ウッドワード記者とCIAと保守財閥のコネクションである。ニクソン辞任は、フォード大統領とロックフェラー副大統領を生み、そこから息子ブッシュ政権のほとんどの人脈を生み出した事件だ。(中略)彼らに抜擢されたフォード政権幹部が、21世紀の地球の運命を動かしたラムズフェルド、チェニー、スノーである」(pp.233-234)。
新保守主義派(ネオコンサバティブ)がホワイトハウスに入り込んだのは、フォード政権の頃からであろうと広瀬隆は分析している。フォード政権でドナルド・ラムズフェルドは国防長官を、ディック・チェイニーは首席補佐官を務めた。当時、ジョン・スノーがどのような働きをしていたのか私は知らないが、後に、ジョージ・W・ブッシュ政権に於いて財務長官に就任しており、それは副大統領チェイニーの推薦によるものだという。
ニコラス・スカウは『驚くべきCIAの世論操作』(伊藤真訳、集英社インターナショナル、2018年)の中で、ボブ・ウッドワード記者をCIAの「資産」と表現している。一方、かつての相棒カール・バーンスタインはどうかというと、CIAとは協力関係を持たず、それどころか、メディアと諜報機関の癒着を暴露している。それは瞠目すべき内容である。バーンスタインが1977年に『ローリング・ストーン』紙に寄稿した記事は「2万5000語の大作で、過去25年の間にCIAと密接に連携して仕事をしてきた多くの著名な報道機関幹部や記者を実名で報じた(中には有給でCIAに雇われていた者もいる)」(p.56)。タイム社の創業者ヘンリー・ルース、CBSのウィリアム・ペイリー元会長、『ニューヨーク・タイムズ』紙のアーサー・ザルツバーガー発行人等を槍玉に挙げるものの、『ワシントン・ポスト』紙(「CIAにもっとも協力的なメディアの1つ」)には言及していない。バーンスタインは1976年に『ワシントン・ポスト』紙を一旦、退社しているそうだ。その上で暴露記事を発表したのだが、なぜ手心を加えたのかは分からない。しかしそのことが却って、古巣もまた同様であったのかと推測させるのである。
無差別爆撃と紳士気どりの協議が交互しながら、ようやくヴェトナムからの撤退が潮時を迎えていた。そこでニクソンは、次の一手とばかりに、中国と国交を結び、ソ連を歴訪し、冷戦終結への筋道を得ようとする。それだけに留まらず、中東和平に向けた外交を積極的に展開したのだった。虚栄心を満たす為だったのかもしれないが、諍いの火種が消えるのなら、そんなことはどうでもよい。しかしキッシンジャーは、国内の親イスラエル勢力の抵抗と圧力を危惧して、中東への関与には気乗りがしなかったという。アレクサンダー・ヘイグ将軍も欧州に目を向けるべきだと主張した(リチャード・ニクソン『ニクソン回顧録 ② 苦悩のとき』、松尾文夫・斎田一路訳、小学館、1979年、pp.262~263を参照)。軍産複合体がニクソンのそうした「活躍」をどのように見ていたかは想像に難くない。彼らにとって、暗い未来を予見させるのに十分な「愚策」であったのである。しかし既に、ニクソンは彼らの手中にあった。ウォーターゲート事件の長い導火線は、いよいよ彼の政治生命を断とうとしていた。
レン・コロドニーとロバート・ゲトリンによると、ウォーターゲート事件のそもそもの発端は、大統領法律顧問ジョン・W・ディーンが単独立案した恐喝であるとしている。実に奇妙な話なのだが、ディーンの妻は、あるコールガール組織と関係を持っており、その成り行きもあり、ディーンは民主党全国委員会本部への侵入と盗聴を指示したのである。コールガールを使った罠である。そうとは知らないニクソンは、寝耳に水の侵入事件に驚き、何でも屋のジョン・ディーンに揉み消しを託してしまう。その後ニクソンは、ディーンの巧みな嘘に翻弄され続けることになる。
ペンタゴンはホワイトハウスにスパイ網を持っていた。ジョン・ディーンの不穏な動きなど、たちどころに嗅ぎ付けていたことだろう。ディーンは弱みに付け込まれ、利用された可能性がある。黒幕となったペンタゴンの目的は、ウォーターゲート事件の責任をニクソン大統領に波及させ、追い落とすことにあった。その間の目付け役が、ハワード・ハントではなかったのか。しかし図に乗ったハントは、ホワイトハウスへの恐喝を開始し、ディーンに繰り返し口止め料を要求する。それにしても、ニクソンが要求を吞み続けたのはなぜだろう?
ジョン・ディーンの嘘と裏切りにより、大統領側近たちは次々と有罪判決を受けた。ディーンもまた有罪ではあったものの、司法取引により収監を免れた。ニクソンは、最高裁判所から録音テープの提出を命じられ、対応に大わらわだった。また、大統領弾劾裁判の手続きが進んでいたこともあり、1974年8月9日に止む無く辞任した。ニクソンの跡を取り、ホワイトハウスに入り込んだのは軍人たちだった。ホワイトハウスは、国民の信任を得た人々が政治を司る場所ではなくなり、ペンタゴンの傀儡が集う出先機関と成り果てた。これが、入れ子構造に隠された別の顔である。ハンプティ・ダンプティはニクソンではなく、形骸化された文民統制なのだった。
クーデターと聞くと、戒厳令の布告と共に軍靴が喧しくなり、戦車や装甲車が街中のいたる所に現れ、絶えず検問所に出くわし、空軍機の爆音が轟くといった不穏な状況を想像する。だが北米本土に於いては、メディアを動員した「洗練」された方法で行われる。今や市民は、一発の銃声も耳にすることはない。
ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺以降、軍産複合体は飛躍的な成長段階に入った。そしてウォーターゲート事件というクーデターにより、遂に怪物と化したのである。各国の同族と水面下で結び付いており、彼らはその巨体を維持する為に、人々の対立を煽り、戦争や紛争を引き起こす必要があるのだ。あるいは、偽装としての生物学的危機などで金儲けを企む。他に能がないのだ。
日本の立ち位置からして、まずはペンタゴンのゲームに決して参加しないことだ。ここにもまたハンプティ・ダンプティがいる。危なっかしくも、どうにか塀の上に座っていてくれたので、この77年間、日本は戦争らしい戦争に巻き込まれずに済んだ。軽率な動き方は命取りだ。憲法第九条というカードを切りながら、距離を保つのが賢明(スマート)である。
*1 “All the President’s Men” は、ハンプティ・ダンプティの一節、“And all the king’s men” をもじったもの。
*2 映画のパンフレットからの抜粋。
「(ボブ)ウッドワードと(カール)バーンスタインの調査活動は、1972年と1973年の初めに最高潮に達し、それがロバート・レッドフォードの注意をひいた。彼は自分の映画『候補者ビル・マッケイ』の宣伝旅行のあいだ、たえず新聞記者たちと接触し、ウォーターゲート事件に対する彼らの冷笑的な態度に驚かされた。『彼らはこの事件を政治の世界にはざらにあるビジネスだと考えており、真相は決して明らかにされないだろうと確信していた』とレッドフォードは言っている。『私にはそれがどうにも我慢ならなかった。しかしながら、その後の数カ月間のうちに、ウッドワードとバーンスタインの特別記事を除いては、それが本当であることを知った。ウッドワードとバースタインが(ドナルド)セグレッティの詐欺話を暴くまで、大部分の他の新聞は不思議なことに沈黙していたのだ』」
「それから1973年の初めにウォーターゲート事件の全貌が明るみに出た。ホールドマンとアーリックマンが辞任した。レッドフォードがウッドワードに会いにワシントンに来た。『レッドフォードはウォーターゲート事件に取り組んでいる2人の記者の姿を描く映画にしたいと言った。そこでわれわれは手記として自分たちのことを書くべきだということに気がついた。そうして1人称で書いたわけだが、これはレッドフォードの示唆によるところが大きい』とウッドワードは回想している」
「レッドフォードはそのことをこう言っている。『私が心を惹かれたのは、それがダビデとゴライアスの物語だったからだ。どうして彼らは他の誰もやっていないことをやったのか? なぜ華々しい名を持つ有名な政治記者はそれをやらなかったのだろうか? どうしてこの2人の無名の記者が国家の権力を失墜させるようなことができたのか?』」(マル括弧は引用者による)
*3 ジェーソン・ロバーツは、アメリカのテレビドラマ『権力と陰謀・大統領の密室』(1977年. 原題Washington: Behind the Closed Door)で、ニクソンをモデルにしたモンクトン大統領役を務め、これもまた大変な見物だった。西村晃の吹き替えも唯一無二であった。因みに原作者は、元大統領内政担当補佐官ジョン・アーリックマンである。日本語字幕付DVD未発売。
(固有名詞は各文献の表記に従った)
石橋宗明