公益通報・内部告発者は保護されなくてはならない。partⅡ

Italian judge Giovanni Falcone attends the launch of the book ‘Dieci Anni di Mafia’ by Saverio Lodato in October 1991 in Rome, Italy. Falcone was an Italian judge who specialized in presiding over Mafia crime. He was assassinated with his wife on May 23, 1992 by roadside explosives. (Photo by Franco Origlia/Getty Images)


兵庫県警察本部の「ご相談・ご意見・ご要望メール」欄に、以下の要請文を送ってみました。

「兵庫県元県民局長と竹内英明元県議会議員が非業の死を遂げました。公益通報者と、審議を行う委員会委員が、SNSによる誹謗中傷、様々な嫌がらせを受けながらも、十全な身辺保護が行われない現状を目の当たりにし、大いに困惑し憂いています。この事態は今後、公益通報や内部告発によって公的利益を確保する機会を著しく減退させることでしょう。民主主義的な状況からの逸脱を招く、由々しき事態です。今からでも、公益通報者及び審議に当たる関係者からの相談や要望に積極的に応じ、適切な対応を行っていただくよう強く要請します」

元県議会議員が亡くなって以降、兵庫県内外から多くの意見と要望が寄せられているそうです。そうした最中、担当の警察官は、私の要請及び係る質問について、とても丁寧に答えて下さいました。公益通報者と、審議に携わる委員の置かれた個々の状況に対応してゆくとする、兵庫県警の姿勢を確かめることができ、私はかなり安心しました。以下要点のみ述べます。

通り一遍の対応ではなく、被害を受けておられる方々の意向や要望を尊重し、保護措置に移る場合もあります。担保されること(将来起こる可能性のある不利益を回避する)が大事だと考えています。

憲法に明記されている表現の自由・言論の自由は、絶対に侵されてはなりません。故に、SNSがもたらしている負の現状を如何にするのかは、立法府の判断に委ねます。私たち警察は、被害を受けておられる市民を守るのが仕事です。

県民あっての県警です。県民との協力・信頼関係を築くことを大切にしています。ご意見・ご要望の一つ一つが貴重であり、上級官のみならず、県警全体で共有されます。県民の総意として受け取り、警察組織の在り方を正してゆくこともあるのです。


ファルコーネ判事率いる専従班が、「マフィア大裁判」を開いていた頃、私は道に迷うことを楽しみながらローマの街中を歩いていました。そこは新緑の薫る静穏な通りでした。車道が伸びる向こうの両側に、若い憲兵隊員*が立っているのが見えました。彼らは自動小銃を手にしており、周囲に注意を払っている様子でした。私は本物の自動小銃を始めて見ましたので、憲兵隊員とは分かっていても、歩を緩めざるを得ません。
間も無くサイレンの音が近づいてきました。通りを隔ててすぐ右手にある両開きの鉄門が、内側へと動くのに気付きました。前庭の向こうに、古い邸のような建物が見えたように記憶しています。サイレンを鳴らす2台のオートバイが、かなりの速度でそこへ滑り込み、続いて公用車のような黒いセダンが続きます。更に、別の車が速度を落としながら前庭へと進むのですが、テールランプが入るか入らないかする内に、門扉が閉じ始めます。
憲兵隊員を振り向くと、彼らは相変わらず銃を構えていました。しかし先ほどまでの緊張は解け、軽口を交わしています。私はもと来た道を戻りながら、バッグから市街地地図を取り出し、自分のいる場所を確かめてみました。ちらりと見えた建物は、裁判所であることが分かりました。
検事や判事もまた暗殺の対象です。黒いセダンの後部座席に乗っていたのは、そうした司法関係の人だったのかもしれません。民主主義の理念に基づく法治国家を守ろうと、懸命に闘う彼らの姿に感銘を受けました。

古い記憶をたどりながら、この国の公益通報者・内部告発者、審議する委員会委員を、彼らの置かれた状況によっては同様にして保護する必要があるのではないか、毅然としてマフィアと闘う市民や司法当局に、私たちは学ぶべきではないか、そんな風に物思いにふけるのです。人の生命と尊厳、民主主義的な状態、それを支える言論の自由・表現の自由、こうした大切な事柄を守り、維持し続ける為の闘いは大いに意義あることです。
*イタリアには二つの捜査機関があり、内務省に属する警察と、軍隊に属する憲兵隊です。


ジャーナリズムの精神を失ったメディアが多過ぎるこの国*だからこそ、SNS上での言説は、理性や節度という制御を失い、悪意の流言飛語が伝染病のように拡散するのです。見苦しいだけでなく、非常に危険なそうした有様は今後、言論の自由・表現の自由を抑圧する口実に使われかねません。政府や企業への批判や疑義もまた、規制の対象となる可能性さえあります。そうした危機感を覚えます。
*国際NGO「国境なき記者団」(本部・パリ)が発表した2024年の「報道の自由度ランキング」によると、調査対象の180カ国・地域のうち日本は70位(前年68位)でした。主要7カ国(G7)の中で最下位に留まったままです。まともな報道メディアへと這い上がるには、権力批判をためらわず、記者クラブ制度を即刻廃止すべきです。

捏造された言説を信じてしまった人も多かったのだと思います。正義感から、真実を求める気持ちから、今の状況を変えたいと願ったのでしょう。しかし本来ならば改革は、公正な選挙やリコール、住民投票で行うべきものです。その為には、まともな議論を重ねる必要があり、当然のこととしてメディアには真実の追究と検証が求められます。言論の自由・表現の自由の真価が発揮される場面でもあります。その結果、誤った言説、根拠の無い言説は淘汰されたり、敬遠されたりするのです。そうした理性的な状況に於いては、暴力が入り込む余地はほんの僅かです。

正義や真実には関心が無く、ただ面白ければそれで良いと考える人々もいるようです。人が死んでも構わないというのなら、ゲーム感覚でいられる行儀の悪さか、危険なサディストなのでしょう。前者は甘やかされた子供に過ぎませんので、更生させましょう。原則として、16歳未満のスマートフォン或いはSNSの利用は禁止にすべきです。サディストや、ナルシシズムを肥大化させた人にも重なるところがあるのですが、彼らは支配欲が著しく、傷付けることを好み、辱めたり陥れたりすることでしか、空虚で惨めな自分を満たすことができません。別の邪悪な存在によって、いとも簡単に操られもします。しかし中には、醜さに甘んじることなく、光の方向へ歩もうともがく人もいます。厳しい修行中の身、とも言えます。幾度も挫折を経験するかもしれません。その都度、堕落への誘惑を拒み続けるのであれば、それは鍛練と成り得ます。

破壊の欲求が常軌を逸していればいる程、SNSの誘惑は抗しがたいものであると思います。匿名で以って、誰かを際限なく傷付けながら快感を得ることができるのですから。しかし攻撃の対象に選んだ人から無視を決め込まれ、煽り立ててくれる共犯者もいないのなら、サディズムの興奮は急速に萎えてゆきます。怒りのはけ口を見失うのです。快感を得られるか失望するかには関わらず、他者の尊厳を踏みにじる行為は、必ずその人自身へと返ってきます。卑劣漢が様になり、良心の呵責に苛まれることが無くても、空虚で惨めな人生に慄然とする日が必ず来ます。自分自身の影に怯えながら、生涯を終えるしかありません。

肝心なのは、市民各々が自らの心の構造を見張り、そうした人々に一切力を与えない健全さを保つことです。それが基盤です。その怒りや不満は実のところ、どこから来ているのか? 私憤を無関係な対象に投げつけようとしていないか? 新型コロナ騒ぎで溜め込んだ鬱積が、攻撃衝動として噴き出してはいないか? 何者かの邪悪に感化してしまい、利用されている可能性はないのか?

ジャーナリズムの多くが地に堕ちていたとしても、だからといって私たちの良識が失われるというものではありません。良識は、自らを律する個々人に宿ります。保留に置く姿勢は、そうした自由の精神から生まれます。SNSの罠に嵌らずに済むのです。

石橋宗明