Investigation Of A Citizen Above Suspicion
侵略戦争当時のデザインそのままであることから、日の丸に対する私たちの感情は錯綜しています。君が代にしても同様です。この際、新旧併存させて、市民各々が自由に選び、掲揚するなり歌うなりすればよいのではないかと考えています。かつて私は、新しい国歌を、忌野清志郎さんや坂本龍一さんに作詞・作曲してもらい、新しい国旗のデザインは岡本太郎さんに任せるとよいのではないか、どんな風になるだろうかと空想しては楽しんだ時期がありました。
新旧併存という考え方は、新聞の投稿欄でも読んだことがあります。問題を硬直化させず、柔軟に模索してゆこうという提案でした。しかし議論には発展せず、アイディアは立ち消えになりました。禁忌とする認識が強い対象である程、話題に上り難いものです。まして、子供たちまで巻き込むのには抵抗がある、こうした不安もあったはずです。しかし中学生ともなると、論理的思考を好み始めます。複雑なテーマを探求することのできる時期に入っています。それにも関わらず、詰め込みに終始する文部科学省の方針は、愚かとしか言い様がありません。歴史の授業は、いつも大昔の事柄で時間切れです。第一次世界大戦、世界恐慌、第二次世界大戦、植民地支配、君主制と主権在民、こういった20世紀の出来事を学び、じっくりと討論する機会を設けなくてはいけません。その上で、新旧併存に至った理由を説明し、更に討論を重ね、生徒それぞれに、好きなように決めて貰う。保留でいることも選択肢の一つです。しかしそんなことをしたら、大多数の生徒が、新しい国旗と国歌を選ぶであろう、文部科学省はそう見越して恐れるのでしょう。
日の丸は簡潔にして美しい優れたデザインであると、その美術家は褒めますが、それを言うのならナチスのハーケンクロイツHakenkreuzも、なかなかの出来栄えです。何を象徴したのか、どのような記憶を呼び覚ますのか、そして継承すべき記録の数々、それらを度外視するのであれば、藝術家を目指すのは諦めたほうがよさそうです*。ところで、ハーケンクロイツは禁止されましたが、日の丸は存続し、今や〈国旗損壊罪〉という法律を成立させようと、政府は躍起になっています。国旗はその国の象徴としてあるのですから、様々な扱いを受けるのは当然のことです。凄惨な過去を背負っているとなれば、尚更です。それなのに、神聖不可侵な対象にしてしまおうとするのは、理不尽ではないのか、まさか、集団的アイデンティティの形成と強化が目的なのか、だとすれば何のために? そんな風に、国内外で警戒が強まるのは必至です。気の滅入ることに、現政権に於いて杞憂では終わりそうもなく、実際に、ファシズム体制の構築を進め、軍事による金儲けを目論んでいます。
*ナチズムの普遍性・親和性を暴くため、表現行為にナチズムの象徴を取り入れることがあります。例えば、アンゼルム・キーファー、デヴィッド・ボウイといった藝術家です。
〔第一段階〕
日の丸をどのように扱うと罰せられるのか(2年以下の拘禁刑または20万円以下の罰金)。〈国旗損壊罪〉創設に向けたプロジェクトチーム(座長は松野博一元官房長官)が、法案骨子案を作りました。それによると、「表現の自由を制約しないよう、処罰対象は、侮辱を加える目的かどうかといった主観的な要素は問わず、外形的・客観的に判断する。具体的には、「国旗を『人に著しく不快または嫌悪の情を催させるような方法』で損壊する行為」とあります(朝日新聞2026年5月16日付)。その文言を美術作品に当てはめてみます。なぜなら、処罰対象とはしないと言いながらも、実にあっけなく標的にされてしまうのが美術作品ですから。さて、表現の自由には干渉しないということですので、侮辱する目的であっても構わない、でも、不快だったり、嫌悪感を催させるものであってはいけない、と読み取っていいのでしょうか。そうであるのなら、椿三十郎の「あぶない、あぶない」ですね。『人に著しく不快または嫌悪の情を催させるような方法』について政府は、幾つかの具体例を示すはずです。新聞やテレビに於いて報道できる範囲で、アブノーマルさが際立つ内容にしておきます。しかし結局は、官憲らの主観や思惑による取り締まりが横行し始めることでしょう。表現者による奇抜さは、大概、眉をしかめさせるものです。でも藝術としての奥行があるのなら、やがては真価が認められます。日の丸を題材に用いるか否かに関わらず、「反日的だ」「民族を貶めている」「青少年を毒する」などと唾棄し、新たな藝術が世に出る機会を奪ってしまう可能性は十分にあります。しかし、まずは日の丸からです。表現の自由への干渉はそこを起点とし、拡大解釈が始まります。
〔第二段階〕
しかし政府は検閲などしません。許容範囲がはっきりしない、官憲の自由裁量もあり得る、そんな取り締まり方が、最もお手軽です。侮辱の意図があろうと無かろうと、めんどうを嫌った表現者とギャラリストが、日の丸をモチーフとする、あるいはそれを連想させる作品の制作や、展覧会をためらったり、止めてしまったりすることは目に見えています。お子様ランチの絵柄でさえも、君子危うきに近寄らずとばかりに、逃げを打つことでしょう。政府はそれを当て込んでいればよい訳で、表現の自由は尊重されていると、うそぶくことでしょう。
それでも、自己規制を忌避する人々、摘発を受けた人々による激しい抵抗が、少なからず予想されます。憲法により、言論・表現・良心の自由が保障されている限り、これを楯に闘えますが、国家権力に都合の良いように書き替えられたり、削除されたりするならば*、法廷で争えなくなります。尤も、権力の濫用を防ぐ為の三権分立が、今や形骸化されてしまった感もあります。端から負け戦を承知で臨まなくてはならないのかも知れません。首尾が芳しくない様子は、後に続く人々の気おくれを招くことでしょう。
*改憲を巡る国民投票には反対です。民主的な手続きと見せ掛けているだけで、やはり「あぶない、あぶない」なのです。なぜなら、有権者の過半数ではなく、投票者の過半数を得られたなら改憲が可能だからです。つまり、改憲勢力が抬頭している情勢では、国民投票は民意を問うものではなく、単に改憲への手続きに過ぎません。その改憲勢力の実態については、第二次世界大戦以降の反共産主義活動について調べてみると、大方見えてきます✝。国内外のファシストたち、諜報機関の人脈を知ることは、現状判断に役立ちます。外国人差別、民族差別が短絡的であり、筋違いであることも分かります。
✝参考図書として二冊挙げておきます。
ジョン・リー・アンダーソン/スコット・アンダーソン『インサイド・ザ・リーグ 世界をおおうテロ・ネットワーク』山川暁夫監修、近藤和子訳、社会思想社、1987年。
ディビット・E・カプラン/アレック・デュプロ『ヤクザ ― ニッポン的犯罪地下帝国と右翼 ―』松井道男訳、第三書館、1991年(加筆・新装版として『ヤクザが消滅しない理由』が不空社から出版されています)。
〔第三段階〕
〈国旗損壊罪〉を嚆矢として拡張解釈が進み、あらゆる表現に触手が伸び、包括的な自己規制体制が仕上がります。しかし戦争経済の継続にはプロパガンダが不可欠です。その為、自己規制に頼るばかりでなく、アクティヴな関与により風潮を高めようとします。大本営報道のみならず、映画やドラマ、ポピュラー音楽、アニメーションやゲーム、政府に雇われた者たちによるSNSへの投稿・拡散などにより、洗脳が恒常化することでしょう。それらに挿入されるプロパガンダについては、例えばアンヌ・モレリ『戦争プロパガンダ10の法則』(永田千奈訳、草思社文庫、2015年)が示唆に富むと思います。
〔My flower garden is truly a work of art〕
私は、国境は取り除くべきもの、軍隊は廃止すべきものと考えてきました。市民を監視する諜報機関も然りです。今もまったく考えは変わりませんが、近年、国旗や国章、そして国歌などが加わりました。それらは歴史博物館に展示しておくべきものです。純血にこだわることに、いったいどんな意味があるのでしょう。民族や人種は自然に溶け合うものです。新しい社会と文明の礎となります。ナショナリズムに凝り固まり、愛国心を鼓舞する時代はもう終わりにしたいのです。人生はもっと単純で、意義深いものであるはずです。生命力に満ちた人生こそ、創造的で美しいのです。
硬直化した不自由な精神、反生命の科学技術に振り回される必要などありません。戦争や紛争、様々な病気を生み出しながら強欲を貪る社会や文明は醜悪です。人それぞれに与えられた人生の課題を台無しにしてしまいます。そのような社会や文明では、人は人として成長せず、精神的進化が望めません。帰属することで自分を見失ってしまうのではなく、自分自身を信頼し、誇れる生き方が尊いのです。その為には、まずはアウトサイダー(異端者、よそ者、群れない者)に徹するとよいのではないか、と考えています。
石橋宗明
