1990年8月2日、サダム・フセインの軍勢がクウェート首長国に侵攻しました。2カ月後の10月10日、米国議員総会で聴聞会が開かれ、ナイラという15歳の少女が証言を行いました。会場には大勢の記者が詰めかけ、テレビカメラが並んでいます。目に涙を浮かべながらナイラは、病院に入ってきたイラク兵が保育器から嬰児を取り出し、冷たい床の上に放置したので死んでしまった、と述べます。ジョージ・ブッシュ大統領(父、元CIA長官)と議員たちは、スピーチでこの証言を繰り返し引用します。ブッシュ大統領に至っては、312人の赤子が殺されたと訴えました。アムネスティ・インターナショナルも、ナイラは事実を語っているとする報告を出します。この出来事を境に、軍事介入に慎重であったアメリカの世論が、急速に開戦支持へと傾いてゆきます。そして、サダム・フセインに最後通牒が突きつけられます。
「イラク時間の1991年1月17日午前二時三十分、爆撃が開始された。爆撃は、四十二日間続き、平均三十分に一回の割合で米軍機はイラクを空から攻撃した」
「1991年末までに、攻撃の結果として二十五万人のイラク人と数千人のその他の国々の人々が死亡し、その大部分は、非戦闘員、女性、子供、乳児だったのだ」*
戦闘が終わる頃になって、ナイラとされる少女は駐米クウェート大使の娘であることが分かり、事件当時、クウェートにいたかどうかさえ怪しくなってきました。記者たちは、病院筋から事件の裏付けを取ることができませんでした。アムネスティ・インターナショナルは、保育器に関する発言は虚偽であったと訂正しました。
イラク軍がクウェートへ侵攻した10日後、大手広告会社ヒル・アンド・ノールトンは〈自由クウェートのための市民〉と称する団体の外国スポークスマンとなります。ヒル・アンド・ノールトン(H&K)は、PR戦術のみならずロビー活動にも長けた広告会社で、世界中に事務所を置いています。それらは、CIAの出先機関の役割も兼ねています。〈自由クウェートのための市民〉はクウェート市民とは無関係であり、顧客はクウェート首長国を牛耳る王族です。彼らは〈自由クウェートのための市民〉を介してH&Nに1000万ドルを支払いました。『ナイラ証言』は最大の見せ場でした。H&Kは議員に働きかけ聴聞会をお膳立てし、メディアを呼び込みました。証言の下書きを用意し、少女に演技指導を行ったのです。それは世界の世論を操作すべく仕組まれた芝居でした。その結果、兵器産業の売上が激増し、石油価格が高騰しました。破壊的な人間たちは、自らの強欲を満たす為ならば、人々の犠牲など何とも思いません。
アメリカ軍を初めとする多国籍軍の介入を許すなら、戦火の拡大は明らかです。しかし私は、暫定的に、子どもたちの殺害と虐待を止めなくてはならないと焦りました。行きがかり上、報道クルーの求めに応じた私は、「サダム・フセインに、クウェートを侵略する権利などあるはずがない」と、多国籍軍による撃退と排除を期待するかのような発言をしました。不運にもその収録は採用され、虚ろな表情で下らない発言をする惨めな姿が放送されました。私にとって1月17日は阪神・淡路大震災発生当時の感覚が蘇る日であり、湾岸戦争による犠牲者に許しを請い、浅はかな自分を恥じる日となりました。
2001年9月11日、貿易センタービルに航空機が突入する事件が起き、私は戦慄しつつも、さすがニューヨークともなると、あちらこちらでカメラが回っているのだなあ、といった程度に自分を留めておきました。ウサマ・ビンラディンやアルカイダといった様々な情報が矢次早にもたらされるのですが、参考にはしますが、判断を急ぐことは避けました。『ナイラ証言』という教訓を得ていますし、成り行きにシナリオ臭さもあったのです。彼らはまず、私たちに衝撃と恐怖を与えてから、良心の痛みと燻る怒りを攻撃へと煽ります。呑み込まれないようにするには、保留の姿勢が効果的です。理性を呼び戻すことができ、更なる野蛮を阻止することができるかも知れません。
以下の書籍を参考にしました。
ラムゼー・クラーク『ラムゼー・クラークの湾岸戦争 いま戦争はこうして作られる』中平信也訳、地湧社、1994年。*P.303から二か所引用しました。
スーザン・トレント『スーパーロビイスト ワシントンを動かす男ロバート・グレイ』上・下巻、佐々木謙一訳、共同通信社、1994年。顧客としての統一教会など、興味深いエピソードが報告されています。
アラン・フリードマン『だれがサダムを育てたか アメリカ兵器密売の10年』浅井信雄=監修、笹野洋子訳、NHK出版、1994年。
戦争とメディア、広告会社を考える上で参考になる映画作品を挙げます。
ティム・ロビンス監督『ボブ★ロバーツ』(Bob Roberts.1992)。ティム・ロビンス、アラン・リックマン、スーザン・サランドン、ジョン・キューザック、他。若手の実業家でフォークシンガーでもあるボブ・ロバーツが上院議員選挙に立候補します。しかし彼の歌は、社会的弱者排除と強いアメリカ礼讃に彩られ、支持者も増える一方です。諜報機関と軍需産業との懇意も見え隠れします。
バリー・レビンソン監督『ウワサの真相 ワグ・ザ・ドッグ』(Wag the Dog.1997)。ダスティン・ホフマン、ロバート・デ・ニーロ、アン・ヘッシュ、ウィリー・ネルソン、キルスティン・ダンスト、他。湾岸戦争やユーゴスラヴィア紛争時の世論操作を題材にしています。アメリカ大統領のスキャンダルを矮小化する為、広告会社から来た揉み消しのプロと、ハリウッドの敏腕プロテューサーが架空の戦争をでっち上げます。
石橋宗明