LE SAMOURAI

シネ・リーブル神戸で、アラン・ドロンAlain Delonの『サムライ』Le Samouraïがかかっていたので鑑賞しました。1967年のフランス映画ですが、劇場で観るのは初めてでした。アンリ・ドカHenri Decaë撮影の秀逸な映像は、銀幕でしか体験できません。『仁義』Le Cercle Rougeもそうでした。ビデオ視聴は手掛かりに過ぎず、別物です。

映画館で貰った『サムライ』のフライヤーに、〈ジェフ・コステロは完璧な殺し屋だった〉とコピーがあります。だった、と含みを持たせてあるのですが、これはさておき、私には彼が恵まれない境遇に育ち、愛情に飢えた、あぶなっかしい青年に見えます。「仕事」はやってのけますが、プロフェッショナルではありません。野生の生き物が狩りに出て、どうにか、ねぐらに戻って来るといった案配です。

いずれ死が勝利することは承知している、だがその時は、こちらからもじっくりと眺めまわしてやろうと、日々待ち構えているのです。言い換えるなら、死との邂逅を美化するナルシストです。青年期にはありがちなことですが、問題なのは、どのくらい肥大してしまっているかです。ジェフ・コステロは30歳ということですが、肥大化したナルシズムを統合できなかった人にとっては危険な年齢に入っています。自分に片を付けたがるのです。

『サムライ』は、拳銃の扱い方だけで人物描写をやってのけるフィルム・ノワールfilm noirの一作品です。例えば「仕込屋」の拳銃の渡し方ですが、彼が何を言いたいのかが伝わってきます。(いつまで続けるつもりだ、まだ若いんだから、やり直せ)と。ジェフ・コステロといえば、(ご忠告ありがとさん)程度に受け流してしまいます。拳銃の受け渡しは一瞬ですが、能弁とさえ感じるくらい双方の胸中が伝わってきます。

押井 こういうことがあると思うんです。たとえば、捕まえてきたギャングの一人を尋問しようとする場面で、ドロンが拳銃をとりだして、弾倉を抜きスライドをさっと引いてテーブルに置くという何気ない所作がある(筆者注・メルヴィル監督『リスボン特急』Jean-Pierre Melville “Un flic”の一場面)。そんなシーンでメルヴィルはすべてを表現できたのですね。その男が何を考えているのか、相手とどういう関係にあるか、そういうことのすべてを。拳銃のあつかいひとつにも、ルールというか儀式があったのですね。そういう映画の世界にいた最後の監督だという気がします。メルヴィル以後には、もうそういう世界がなくなってしまった(後略)。
矢作 同じことが日本の時代劇映画にも言えますね。たとえば侍が刀を鞘ごと腰から抜いて自分の前に置いたり、左側に置いたりする。どっちに置いてもいいわけではないのです。その置き方によって表現しているものが違っているわけですから。先日、北野武監督の『座頭市』を見てきましたけれど、そういった所作も刀を持っている人間の緊張感もまったく感じられないわけですね。
(ルイ・ノゲイラ『サムライ ―ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生』から、〈対談 さらば「フランス映画」〉p.378、井上真希訳、晶文社、2003年)。

つまり押井守と矢作俊彦は、「フランスのフィルム・ノワールも日本の時代劇映画も」所作conduct, behaviorによる表現者を失い、ジャンル自体も亡びた、と嘆いているのです。そして今日に至っては、洋の東西を問わず、どうでもいいようなお喋りとモノローグが氾濫しています。そうした趨向の中、リドリー・スコットRidley Scott監督の『ブレードランナー』Blade Runnerはディレクターズ・カットDirector’s cutの機会に恵まれ、ナレーションをすべて省きました。その結果、フィルム・ノワールの陰影を際立たせることができたのです。そもそも、優れた素地を持つ作品であることは、繰り返すまでもありません。

捜査官の男が、主人公に拳銃を投げて寄越す場面があります。やや乱暴な所作ではありますが、物語の最後に、それが武士の慈悲A Samurai’s Marcyであったことが分かります。難を言えば、その捜査官の素っ気ない科白もまた不要に思えたのです。

余談ですが、北野武監督『座頭市』に私の父(直樹)が端役で出ていたことを人づてに知りました。ビデオ視聴しているのですが、まったく気付きませんでした。確かめたい気持ちもあるのですが、二度も観る作品ではないので迷っています。


石橋宗明