Headline Secretary-General Arrives in Leopoldville
Caption Description
Secretary-General Hammarskjöld (right, foreground) is seen as he inspected a Guard of Honor at Njili Airport shortly after his arrival.At centre is Prime Minister Cyrille Adoula and, at left, Joseph Mobutu, General of the Armie Nationale Congolaise.On the Secretary-General’s left is Gen. S. McKeown, Commander of the United Nations Force in the Congo.The Secretary-General will meet with Premiere Cyrillo Adoula to discuss United Nations support to the Democratic Republic of the Congo.
Unique Identifier UN7768969
NICA ID 57044
Production Date 09/13/1961 1:12:30 PM
Credit UN Photo/BZ
Headline Premier of the Republic of the Congo at UN
Caption Description
Premier Patrice Lumumba, of the Republic of the Congo, photographed as he met with UN Secretary-General Dag Hammarskjöld (right) at United Nations Headquarters today.
Unique Identifier UN7720785
NICA ID 123839
Production Date 07/24/1960 10:27:41 AM
Country United States of America
City/Location New York
Credit UN Photo
私には立体造形の構想がいくつかあり、その一つが、航空機墜落を題材にしたものだ。航空機事故の研究者は、墜落原因のみならず、それがもたらした社会的、経済的、政治的影響について、広範囲に調査し考察する。どうかすると、現代社会の暗部を垣間見ることもある。彼らの研究報告を基に、私たちの社会を蝕む強欲と腐敗、そして狂気を、立体造形として露呈させる試みである。
ヒューマニズムや理性による正義が挫かれた結果、いかなる不条理が席巻していったのか。でもそればかりではなく、命を奪われた先駆者と共に思想もまた死に絶えたのではなく、蹂躙された草花がいつしか息を吹き返すがごとく、破壊の不条理を押し返してゆくのだという真理も見えてこなくてはならない。
ハンス・ハーケの方法を参考にするつもりだが、まったく違った表現の形を見つけ出せることに賭けてはいる。残骸が散らばっていたり、検証の為、倉庫の床面に組集めてあるものを模したり、そうしたイメージからは離れたい。また、野暮なキッチュの類にはしたくない。文学や音楽でもそうだが、饒舌や、詰込みが過ぎたりすると、感性と悟性の働きを邪魔してしまい、疲労感のみが残るだけである。それに対し、寡黙に思えて、強烈な印象を残す作品もある。例を挙げると、河原温の日付シリーズがそれで、先日、美術館で改めて鑑賞する機会があった。作者の日常に現代史が焼き付けられ、ざらついた空気感は共有可能である。私たちにとっての道標でもあるのだ。
取りも直さず、作品として魅力が乏しいと元も子もない。そうとは知らずとも、眺めていたくなる面白さが欲しい。やがて想念が生じてくるのなら、まずは上出来だ。
作品制作へと駆り立てる動機となった墜落事案は複数あり、次回は、イタリア炭化水素公社エンリコ・マッティ総裁を乗せた自家用ジェット機墜落の話しになるはずだ。まずは、第2代国際連合事務総長ダグ・ハマーショルド(就任期間 1953-1961年)が死亡した事案を取り上げる。
デンマークのマッツ・ブリュガー監督が取材し、『誰がハマーショルドを殺したか』(2019年)という秀逸なドキュメンタリーに仕上げている。映画館で鑑賞したが、コンゴ動乱やアパルトヘイト(人種隔離政策)が絡む複雑怪奇な内容なので、Amazonのprime videoでおさらいをする必要があった。DVDは、ようやく今年6月3日に発売予定だという。
ブリュガー監督の口述筆記を軸に映画は展開する。南アフリカのスティーンバーグと、コンゴのキンシャサで行われるのだが、それぞれを別の黒人女性のタイピストが担当する。なぜそのような構成にするのか、巻頭から私は混乱する。映画で取り上げられる性格異常の悪人と同じく、監督も全身白づくめの服装をしている。キンシャサの〈ホテルメムリン〉にはその悪人が泊まったことがあるという。とすると、プロファイリングなのだろうか? 「この物語は世界的殺人事件か、またはありふた陰謀説かのどちらかです。後者の場合は、謝ります」と、いきなり断りが入ったりもする。
1961年9月18日、ダグ・ハマーショルドは国連チャーター機(ダグラスDC-6B)に搭乗し、カタンガ共和国へ向かった。コンゴ動乱がいよいよ混迷を極め、その停戦調停が目的だった。コンゴの空港を飛び立ってから数時間後の深夜、ダグラス機は墜落し16名全員が死亡した。未だ原因は明らかにされていないが、2013年、国連が調査委員会を設置し再調査を始めた。それまではパイロットの操縦ミスが有力視されていたが、戦闘機による撃墜の可能性が強まっている。
ウィキペディアに《1961年国連チャーター機墜落事故》という項目があり、これがよく研究された書き込みなのだ。『誰がハマーショルドを殺したか』では触れられていない事柄について多くの記述がある(ダーグ・ハンマルフェルドとあるが、これは彼がスウェーデン人であることから)。まだ裏を取ってはいないのだが、以下、興味深い報告なので書き出してみる。ダグラス機は北ローデシア(現在のザンビア)のンドラ空港から15キロ地点に墜落した。墜落の知らせを受けた北ローデシアの首相は、二人の病理医を現場に向かわせる。1名の生存者が確認され、ンドラの病院に搬送する。彼は国連の警護官で、重度の火傷を負っていたものの、医師たちに対し、墜落前に空で複数の閃光を見たこと、機上で爆発があったことを話した。適切な医療処置を施せる他の病院に移されることなく、警護官は5日後に死亡した。また、彼の証言は調査報告には採用されなかった。
2005年、ノルウェーの新聞が、ダグラス機墜落当時、国連軍将校だった人物ついての取材記事を掲載した。以下は、その軍人による証言。ハマーショルドの遺体は、他の犠牲者のようには焼けてはいなかった。額に丸い穴が開いていたが、遺体写真には加工が施され、その穴は消されていた。その上、事故報告書には検視結果が省かれていた(従って、弾痕か否かは分かっていない)。ハマーショルドの手に草が握られていたことから、墜落時に投げ出され、炎上する機体から避難したのではないかと将校は推測する。そして、ンドラ空港から墜落現場までは15㎞しか離れていないにも関わらず、捜索救助活動が半日以上も過ぎてからだったのは不可解だと言う。
『誰がハマーショルドを殺したか』で、複数の焦げた遺体が映し出されるが、仰向けになったハマーショルドの遺体は火炎の損傷を受けていないように見える。このことは、元国連将校の証言の信憑性を高め、妥当な推測であることを窺わせる。また映画では、ンドラ空港の近辺に住む人々の証言を取り上げている。その航空機(ダグラス機)は着陸しようとンドラ空港に向かっていた。すると突然、空港の照明が消え、ジェット機がやってきた。ダグラス機の上方から、機を目がけて数回の閃光が走り、炎が上るのが見えたという。これは国連警護官の証言とも一致する。
場面は変わり、ブリュガー監督はコンゴ民主共和国のカタンガ州、その州都ルブンバシにいる。〈ホテルレオポルド二世〉の客室で、ソリティア(トランプを使う単独のゲーム)に興じている。ところが、繰り出すどのカードもスペードのエースなのだ。これは映画『シャイニング』の「仕事ばかりで遊ばないジャックはいつか気が狂う」に通じる狂気であるが、レオポルド二世への当てつけではなく、ダグ・ハマーショルドの遺体の襟に挟み込んであった、スペードのエースの札を射抜いているのだ。これはCIAが関与したことを示す「署名」(脅しか?)とされている。また、CIAに協力し、現地で謀殺を指揮したとされる「南アフリカ海洋研究所」別名〈サイマー〉の狂気に対するものでもある。
〈サイマー〉は下請けの暴力装置で、白人至上主義の結社だ。南アフリカがアパルトヘイト下にあった頃、〈サイマー〉は偽の診療所を開設し、無料で「予防接種」を行っていた。貧困の極みに置かれていた黒人にとっては是非とも利用したいところだ。極悪非道にも、そのワクチンにはHIVウィルスを混入させてあった。黒人の人口を減らすのが目的だったのである。そしてエイズはアフリカで大流行した。
〈サイマー〉にたどり着いたのは、ブリュガー監督にとっては予想外の、かつ不気味な展開だった。しかしそれにより、映画は平凡さを免れたのである。
コンゴ共和国は、1960年6月30日、ベルギー領から独立を果たした。「アフリカの希望」と呼ばれたパトリス・ルムンバが初代首相となった。一方でルムンバは、ソビエト寄りの扇動家として、アイゼンハワー大統領やアレン・ダレスCIA長官らから危険視されていた*。
間もなく、反ルムンバのモイーズ・チョンべが、コンゴ共和国からカタンガ地方を分離独立させた。チョンべが押さえたカタンガ地方は、銅・コバルト・ウラン・金などの鉱物資源が豊富に存在する。因みに、ここから掘り出されたウランが、広島と長崎に投下された原爆の材料となっていた。ベルギーはカタンガ国の独立を即時に承認した。ベルギーの鉱物会社『ユニオン・ミニエール』は、早くからモイーズ・チョンべに資金援助を行っていた。『ユニオン・ミニエール』は、ロスチャイルド系列企業『ソシエテ・ジェネラル・ド・ベルジェック』の子会社である。
1960年12月1日、パトリス・ルムンバは移動中に対立勢力に逮捕される。翌年の1月17日、カタンガ国に於いて拷問の末、処刑されてしまう。
1961年9月、国連軍とカタンガの軍隊との激しい戦闘が勃発する。当初、国連軍の任務は、カタンガ国の戦力となっているベルギー軍と傭兵部隊を穏便に退去させることだった。9月18日、カタンガ国のチョンべ大統領と停戦調停を結ぶべく、ハマーショルドはダグラス機に乗り込む。チョンべ大統領を丸め込むにあたり、それ相応の切り札を用意していたはずだ。それが何かは、私には分からない。
ダグ・ハマーショルドの最終目的は、コンゴの資源を巡る殺戮に終止符を打つことだったのではないか。国際金融資本が築いた略奪構造を転換させ、人々の平和な生活とコンゴの発展の為に資源を活用させようとしたのだ。これに成功するなら、独立後間もない他のアフリカ諸国にも波及させられるかも知れない。1960年は「アフリカの年」と呼ばれるように、アフリカの人々が宗主国の植民地支配から脱し、自らの国家建立へと歩み出した。人道的、政治的、経済的にどこまで支援することができるか、ハマーショルドはそうしたことを自らの試金石としたのではないか。
石橋宗明
*CIAはルムンバ暗殺に用いる為、風土病に似た症状を引き起こす病原菌をコンゴのレオポルドビル支局に持ち込んでいた。しかし使用期限が過ぎ、廃棄処分された(米上院特別委員会報告『CIA暗殺計画』、毎日新聞社外信部訳、毎日新聞社、1976年. 「コンゴ‐ルムンバをめぐって」の章を参照)。
◇参考資料
『誰がハマーショルドを殺したか』のパンフレット。ドキュメンタリー映画作家の森達也氏らが寄稿しており、解説も分かりよく、充実した内容である。
ダグ・ハマーショルド『道しるべ』、鵜飼信成訳、みすず書房、新装版2020年。死後に出版された「自省録」。ハマーショルドは文人としての才覚をも享有していた。
ステン・アスク+アンナ・マルク=ユングクヴィスト編『世界平和への冒険旅行 ― ダグ・ハマーショルドと国連の未来』、光橋翠訳、新評論、2013年
Susan Williams “Who Killed Hammarskjöld? The UN, the Cold War and White Supremacy in Africa ” Hurst & Company, London, 2011
多数の写真と図説あり。ハマーショルド暗殺を立案した〈サイマー〉による文書の一部も掲載されている。
ウィリアム・ブルム『アメリカ侵略全史』、益岡賢+大矢健+いけだよしこ訳、作品社、2018年